夏目友人帳
□名を呼んで
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「っ、くっ」
ぎりぎりと首を締め付けられる圧迫感と閉塞感に、抗いがたい苦しさと死への恐怖が襲いくる。
地面に押し付けられるように俯せになった背中に掛かる重みはその見た目通りずしりと重く、みしと骨が小さく軋んだ。
声を出そうにも喘ぐようなか細い吐息しか漏れず、反撃するために殴ろうにもこの体勢では出来る訳も無い。
このままじゃマズイっ
早く何とかしないと―――
「にゃん…せんせっ……」
“ビュンッ―――”
《グアァッ!》
「!」
命の危機をより強く感じ焦りと意識の遠のきを覚えたと同時に、不意にこれまでの重圧感が消え失せた。
それと共に解放された体は軽くなり、不足していた酸素を取り込もうと大きく息を吸い込めば草と土の匂いが肺を満たす。
『大丈夫か? 夏目貴志』
「けほっ、けほっ……」
未だ地に俯せに倒れ込んだ姿勢のまま視線だけを動かせば、自分を見下ろす人影が一つ。
先程まで襲いかかってきていたあやかしはどうやら居なくなったようだ。
「……、……級長戸?」
『あーあー、これはまた随分とボロボロにされてまあ』
「これくらい、大丈夫さ。かすり傷程度、だから」
『まったく、会う度に何かしら危ない目に遭っているなお前は。私が散歩で調度通り掛かったから良かったものの、もしここを通らなかったら今頃どうなっていた事やら』
手をひいて立つのを助けてやりながら、呆れたような馬鹿にするようなため息混じりにそう言った級長戸。
とはいえ、本人は隠そうとしていたようだが少年を心配するような色がその声に僅かに滲み出ており。
それに気付いた夏目は、小さく咳き込みながらもくすりと口元を緩ませる。
「ははっ、確かに。でも、お陰で助かったよ。ありがとう、級長戸」
『……。ふん、この程度の事でいちいち礼などいらん』
「相変わらず素直じゃないな。級長戸よ」
腕を組みぷいっとそっぽを向き悪態にも似た言葉を放った級長戸に対し、突然やや離れた茂みから声が投げかけられた。
次いでがさりと草を揺らして姿を現したのは、ぽてぽてと音のしそうな足取りでやってきた一匹の猫。
『斑!?』
「夏目に礼を言われて本当は嬉しかったのだろう?」
「そうなのか?」
『っ、う、うるさい!』
からかうような斑の言葉と、夏目のきょとんとした視線を受けた級長戸はぐっと言葉を詰まらせる。
だが、すぐに勢いを取り戻しキッと睨むと同時に矛先を斑へと変えた。
『そ、そもそもお前がいながら何故こやつがあやかしに襲われているんだ! この役立たずの大福めが!』
「大福ぅ!? 貴様このプリチーな姿を大福と言うとはなんと失礼な!! それに私だって夏目を先に逃がして先程まであやかしと対峙してたんだぞ!」
『はんっ、だがその間に別のあやかしに襲われてちゃあ世話がないな“自称用心棒”の斑よ』
「きぃっ、嫌味な奴だな!! この一反木綿め!」
『なっ、誰が一反木綿だ誰が!!』
「ふん、ひらひらひらひら空を飛んでるお前は一反木綿で十分だろう」
『こんのもちもち饅頭如きが偉そうに!』
「なにをぅ!?」
斑の頬をびにょーんと伸ばす級長戸と、そんな級長戸をぽこぽこと叩く斑。
ぐぬぬぬぬと唸る二人は、相も変わらず負けじと言い争いを続けており。
「おい、二人ともその辺にしとかないか」
いい加減見かねた夏目がやれやれと仲裁に入った。
話題の中心人物からの声に、ぴくりと二人は反応するも
『夏目貴志!』
「な、何だよ」
不意にズイッと級長戸が夏目に詰め寄る。
その勢いに気圧されるように、夏目はやや仰け反った。
『斑じゃあ頼りないと思ったらすぐに言え。私がお前の新しい用心棒になってやろう!』
「は?」
「何勝手な事言ってるんだ貴様は! 夏目の用心棒は私以外に誰も勤まらんに決まってる!」
『ふん、どの口がそれを言うか』
「ぐぬぬっ」
「だから二人ともやめろって……」
再開された喧嘩にげんなりと頭を抱えてから、級長戸の手からベリッと斑を奪い押さえ込むように抱きかかえる夏目。
そうすればお互いに手を出し合うことは無くなりふうっと安堵の溜め息を夏目はつくが、その間もバチバチと無言の睨み合いは続いていた。
「それよりも夏目。こんな事をしている暇は無いのではないか? そろそろ行かないと時間だぞ」
「わ、ほんとだ。急がないとやばいな」
『何かあるのか?』
「ん? ああ、今夜花見をする約束をしているんだ」
『花見……』
確かにこの山の木々はどれもこれもが色付き見事に花を咲かせている。
この辺りも含め、山奥まで入ってくることはないが人間達が山の麓で花見をしている姿を級長戸もちらほらと見かけていた。
となれば、あやかし共も毎晩花見でどんちゃん騒ぎを始める頃だろう。
「そうだ、級長戸も来ないか?」
『私も?』
「夏目っ」
腕の中から響いた声は不満というよりも、制止の意を孕んでいたようにも聞こえる。
級長戸も何か思うところがあるのか、そんな斑にちろと視線を寄越してから確かめるように口を開いた。
『だが、約束というからには他の者もいるのだろう?』
「ああ。だけど、俺以外はみんなあやかし達だから級長戸も良かったら一緒にと思って」
『そうか。……悪いが、私は遠慮しておく』
「あ、もしかして気を遣ってるのか? 飛び入り参加だろうと気にするような奴らじゃないし、初対面のあやかしがいて気まずいなら俺から紹介するしさ」
『あー、そういう訳じゃないんだが』
夏目の親切な申し出に対して、何処か歯切れ悪く返答する級長戸。
まいったなと言う様にぽりぽりと頭を掻きながら、何と言うべきかと彼女が言葉を探していれば
「それに、級長戸のあの歌を聞かせてやればきっとみんなも喜ぶと思うんだ」
「……」
『喜ぶ、か……』
級長戸の心境を知らぬ夏目が名案だと言いたげに述べた発言に、不意に彼女は自嘲めいた笑みを小さく零した。
「すごく綺麗な声で上手かったしさ。あの歌のお陰で良く寝れて、体調も良くなったんだ」
『そうか、それは何よりだ』
「あ、そういえば俺まだお礼言って無かったよな。あの時はありがとう、級長戸」
『……ああ、いや、気にするな』
今度は照れ隠しをするでもなく、素直にそれを受けた級長戸。
だが、その話題をさらりと流すように間を開けずに級長戸は自分から口を開く。
『とりあえず、あやかしの花見となれば酒を鱈腹飲むのだろう?』
「ああ、たぶん」
苦笑混じりに答えた夏目は、級長戸の言葉で何かに気付いた様にその顔を見詰め返した。
「もしかして級長戸は酒が嫌いなのか?」
『いや、酒は私の好物だ』
「? なら問題ないじゃないか」
『まあ、私はな。だが、酔っぱらい共の相手をするのは御免だ』
「お前だってもがっ」
また喧嘩になりそうだと瞬時に察した夏目は、ぱっと素早く斑の口を塞ぐ。
それに抗議するように、てしてしと夏目の手を肉球が叩くがそれが外されることは無い。
んーんー、と斑はくぐもった唸り声を響かせるがそれはどうやら無意味に終わりそうだ。
『あ゙ー……、つまりあれだ。そう、私は花見は静かに楽しみたいからな。大勢でわいわいするのは好きじゃあないんだ』
うんうんと頷きながらの級長戸の言い分は何かを誤魔化すような、何処か急場しのぎのようにも聞こえなく無い。
「まあ確かに、にゃんこ先生もいるしあのメンバーだと静かにはしていないだろうな」
『だろう? そういう訳だから、私の事は気にせず楽しんでこい』
「そうだそうだ! こいつなんてほっといて早く行くぞ!」
ぷはっ!と自力で夏目の手を解いた斑も、先程とは打って変わって級長戸の発言を擁護するように言葉を繋げた。
とはいえ、邪険にする内容であることには違いないのだが。
そんな斑の言葉もあってか、級長戸本人もそう言っているとなるとこれ以上強制する訳にはいかない。
何処か腑に落ちない物を感じつつも、夏目は分かったと返事をした。
『ああ、そうだ夏目貴志』
「ん?」
『最後に一つ言っておきたいんだが、何かあったらすぐに私の名を呼べ』
「え?」
不意に真剣みを帯びた声とその内容に、夏目は思わずぽかんとしてしまう。
『お前は危なっかしいからな。それに、先程のように斑ひとりじゃあ間に合わない時だってあるだろう』
「……まあ」
『花見ともなれば、酔ったあやかし共が酒のつまみにと人間を襲いやすくなる。何かしら対策をするのだろうが、そんな中でお前の正体がばれればご馳走扱いされるのは間違い無いぞ』
自分があやかし達から狙われる身だと本当に分かっているのかと問い質したくなる程に、いささか軽率な行動の多い夏目。
恐らく常日頃から先程のような目に遭っているのであろう事は容易に想像出来る。
斑が傍にいるならばそれなりに大丈夫だろうと思っていたが、先刻の事でその考えはどうやら甘かったようだと考え直させられたのだ。
『今回の花見に限らずとも、名を呼んでくれれば私はどこにいても必ずお前の元へ行こう』
それがどんなに小さなものであろうと
『まあ、私がいなくてもお前の周りにはお前を大切に思う奴らが沢山いるだろうが、いざという時の為にな』
それが例え心の中での呼び声であろうとも―――
『それに、厄介な相手と対峙した時は尚更に私がいた方が何かと役立つ筈さ』
「級長戸が?」
意外そうな声を上げて夏目は級長戸を見る。
正直な所、女性の姿をし羽衣や幾重にも重ねられた優雅な衣装を纏っている級長戸は、どちらかといえば戦闘向きではないと勝手に思っていたのだ。
だが、先程自分を喰おうとしていたあやかしを蹴散らした事からも、確かにその力は侮れないのかもしれない。
『む、私を甘く見ているな? 言っておくが、私はそんじょそこらのあやかし共よりも強いぞ。例えば、そこの斑よりもな』
「へぇ、にゃんこ先生よりも強いのか。それはすごいな」
「夏目! そこは感心するのではなく否定するところだろうが!」
『ははっ』
憤慨したように喚く斑に笑い声を上げる級長戸。
ぷんすかしている自分の用心棒を宥める為に苦笑混じりに頭を撫でてやる夏目に目を細め、級長戸は先刻よりもいくらか口調を砕けさせ言葉を続けた。
『だから、変に遠慮することなく何かあればすぐに私を呼べ。いいな?』
「……ああ、分かった」
『よし、約束だ』
「わっ」
こくりと頷いた少年に満足げな顔をした級長戸は、楽しそうにわしわしと夏目の頭を撫でる。
それと同時にふわりと柔らかな風が吹き
「!」
バッと夏目の腕から飛び出た斑がタックルするようにいきなり級長戸の顔に飛びかかった。
それによって風は止み、級長戸は踏鞴(たたら)を踏んで後ずさる。
「こら級長戸! 勝手に夏目に何してる!」
『はぁ、いちいち斑はうるさいぞ。少し位いいだろうが』
「これからあやかしの花見に行くと言ったのを忘れたか!」
『斑じゃああるまいしそれくらい覚えているに決まってるだろう。それに、今のはお守り程度で大したもんじゃあないから安心しろ』
「お守り程度と言ったってなぁ!」
「二人でこそこそ何の話をしてるんだ?」
「!」
級長戸が屈むようにして斑に顔を近付け小声で話していたせいか、夏目は不思議そうに首を傾げ声を掛ける。
それに斑はピッと体を小さく跳ねさせるも、落ち着けと言わんばかりにぼふぼふとその頭を軽く叩くように撫でた級長戸は、夏目へと視線を戻し
『ん? ああ、“私の夏目に触るな”と斑が五月蠅くてな』
さらりとそう言い放った。
それに斑は「はぁ!?」と声を上げるもすぐに口を噤み、今回ばかりは噛み付く事せず小さくぶちぶちと文句を言うだけに留め大人しくしている。
「さて、さっさと行くぞ。あいつらを待たせると五月蠅いからな。それに、先に酒を飲み干されたらたまらん!」
「にゃんこ先生の心配はそこだけだろ」
斑に急かされ、先に歩き始めた猫を追うように夏目も足先の向きを変えた。
そんな一人と一匹のやり取りにくくっと小さく咽を鳴らした級長戸も、気が済んだようにふわりと宙に浮く。
『じゃあな、夏目貴志。私の分も楽しんでおいで』
「ああ、またな。級長戸」
『―――』
“また”
その言葉一つにくすぐったくなるような温もりが溢れてくる
その言葉一つにどうしようもない嬉しさを覚えてしまう
真実を告げる事の出来ないもどかしさも、去りゆく別れ際の寂しさも
ただその一言で洗い流されていくようで
日の落ちた月明かりだけが頼りの森を進み行く後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた級長戸は
『また、な―――』
すぅと溶けゆくように風になり
ゆるりと口元に弧を描き穏やかに夜空をかけていった―――
(そういえば、にゃんこ先生は級長戸と知り合いだったんだな。友達か何かなのか?)
(な、馬鹿な事を言うな! 誰があいつと友達だ誰が!!)
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