いろは唄

□待ち人来たりて舞いし春
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    ふわり









ひらり








      はらり













春よ











      
     来い―――
























からん―――…‥・












「蓮さん」

『……。……おや、薬売りの旦那じゃないかい! 久方ぶりだねぇ』

「ええ」

『あんたが最後にここを訪れたのは、一年前の事だったか……』


軽やかな下駄の音を響かせ現れた、蒼色に包まれる珍妙な男。

振り返りその姿を目にした蓮は窓辺に腰を下ろしたまま、懐かしさと再会を喜ぶ様な声音で薬売りを出迎えた。

女のすらりとした指の間にある煙管から立ち上る細い煙が、ゆらりふわりと線を引く。


『見たところ、どうやら変わりない様で安心したよ』

「蓮さんも、お元気そうで何よりで」


勝手知ったるなんとやら。

薬売りは趣在る宿の、とある一室に躊躇いもなく入り、

背負っていた薬箱を下ろして女の(かたわら)に座した。

それがもし普通の客であろうものなら即座に追い出されていただろう。

だがそんな待遇を受けるでもなく、女は面白そうに目を細めたまま薬売りの様子を眺めるだけ。

そして近くで帳簿を付けていた下男に茶を持って来ておくれと言い、蓮は話しを再開する。


『それで? 今回もまた何か訳ありかい?』

「いえ、久しぶりにこの町に立ち寄ったので、蓮さんの顔でも見ていこうかと」

『一年も経つってのに、あたしのことを覚えていてくれたなんて嬉しい事を言うじゃないか』

「蓮さんを忘れられる事の方が、難しいというもの、ですよ」

『ふふ、女を喜ばす台詞を忘れないとは流石薬売りの旦那。その甘い言葉で一体何人の女を泣かしたのかねぇ』


艶を放つ手入れのされた鳥の濡れ羽色の髪。

雪の様にきめ細やかな白い柔肌。

匂い立つ様な色香を放つ見目麗しい(かんばせ)

そして、はんなりとしてそれでいて自信の溢れる口調。

女のそのどれもが人を惹き付け男を魅了する要素に過ぎず、

薬売りの言葉にころころと笑う蓮は、挨拶代わりだと言わんばかりに少しだけ意地悪な言葉を付け加える。


「泣かすだなんて、そんな酷い男に見えますか、ね」

『なぁに、あたしなりの褒め言葉さ。まあ、ちょいとした嫌味もなくはないけれどね』


微かな苦笑混じりに薬売りが返せば、蓮はくつくつと可笑しそうに咽を鳴らした。

本当に久しぶりに再会したせいか、どうも気分が浮かれ気味になってしまうらしい。

笑いと共に蓮の簪がしゃらりしゃらりと涼やかな音を奏でる。


『だが、相変わらずの良い男なんだ。何処行っても女がほっときゃしないだろう?』

「まさか、そんな事はありやしませんよ」

『はは、そういう良い男面しない所も女にもてる秘訣ってもんさ』


煙草が燃え尽きたのか、煙草盆の灰吹きのふちで煙管を軽く叩き灰を落とす蓮。

どうやらまだ吸うようで、慣れた手付きで女は火皿に丸めた煙草を詰めた。

そして煙草盆の炭火に雁首(がんくび)を近づけ火を点ける。

黒漆の地に金の花模様。

女の着ている着物もさることながら、使っているその煙草盆からも蓮の品の良さが伺えた。


「いつ見ても思う様に、蓮さんの方が断然魅力的ですよ」

『まったく、薬売りの旦那には敵わないねぇ。嬉しい褒め言葉の礼にあまりでかいもんじゃなけりゃ、特別に何か一つただで情報をあげようじゃないか』


気を良くしたのか煙管の羅宇(らう)を優雅に持つ蓮は面白そうにその唇にうっすらと弧を描き目を細める。

それだけで男を虜にするには十分な魅力を放っていた。


「そいつぁ、ありがたい。……ですが、今回に限って生憎聞きたいことは」

『なんだい、まさかこのあたしの親切を無下にするつもりじゃないだろうね?』


だが此度はモノノ怪を追ってこの町を訪れた訳ではない故と薬売りが遠慮しようとすれば、

蓮は片方の柳眉を上げ機嫌を損ねた顔をする。

勿論女のそれは態とであり実際には言葉遊びに似たやり取りの為、薬売りも別段焦りはしない。

しかし嘘とはいえこのままの状況はよろしくない。

折角こうして会いに来たのだ。

それに、戯れで敢えて不機嫌を装っている蓮自身も一体どうやって薬売りが自分の機嫌を戻すのかを楽しみにしているのだろう。















さてどうしたものか













ことり。


戻ってきた下男が茶を二人の前に置く。

その下男に蓮は使いを頼み、室は再び二人だけとなった。


「ああ、ではちょいとばかり、蓮さんに相談に乗って頂きたい事が、ありまして」

『相談?』

「ええ、俺の想い人の事で」

『ほぅ……』


暫しした後に口にされた思いもよらぬ薬売りからの言葉に、女は微かに驚いた様な表情を浮かべる。

男の癖に綺麗に整った容姿と醸し出す妖艶さに、何処へ行っても頬を染め想いを寄せる女子(おなご)は後を絶たぬであろう。

だが他では分からぬが、とんとこの町では薬売りの色恋沙汰を聞いた事は無かった。

遊郭で名のある夜の花が声を掛けても靡きすらしなかったという。

それだけにまさか本人から恋の話しを、まして相談されるとなると何とも不思議な気分である。

それと同時に蓮はらしくもない感情を覚えるも、彼女はそれを表に出さずにふわりと煙を吐き出すだけに留めた。


「“とある町にうら若き宿の大女将”、がいましてね」

『ああ』


そんな蓮の気持ちを知ってか知らずか、薬売りはいつものゆったりとした口調で話し始める。


「その女将は年を重ねる度に色気を増し、その美しさで人を惹き付け、けれど媚びや世辞を言って人の世を渡る事はせず、自分というものを、しっかりと持っている」


先程出された茶を一口含み、薬売りはそこで一端言葉を途切れさせた。

その間も真面目な面持ちで待っている蓮。


「おまけに、義理と人情と度胸を持つ、男顔負けなそんなお人、なのですが、生憎と言って何一つ自分の事は語らないもので」


薬売りはふと女から視線を外し、一度だけ出格子(でごうし)の向こうへと目をやる。


まだ春というには早く

冬と言うには景色に彩りが戻りつつあり

庭にはえる木の枝先にはぷくりと蕾が見えた

それは何かを告げる様にも予兆する様にも映る


「聞いた話によれば、山のような縁談も恋文も全て突っぱねているらしく、薬売りを生業にしている俺には、到底一筋縄ではいかない高嶺の花」

『……』


そしてすっと青い双眸を細め蓮を真正面から捕らえた。

逃れる事の難しい蒼色に灯る色に

薬売りが漂わせる雰囲気に

今紡がれた言葉に

女ははたと、そこで何かに気付く。


「ですが幸いにも、時折茶や酒を飲み交わし、何気ない時を共に過ごす事は、出来ていまして」



嗚呼

  まさか―――



「ちなみに、その方は宿の主人という仕事柄、裏では情報屋も兼ねているお人、でして、ね」

『ちょっ、ちょいと待っておくれ』


不意に額を手で軽く押さえ、蓮は途中で話しの腰を折った。

おまけにやや俯き加減で困った様に整った眉を寄せている。


「おや、どうか、しましたかい?」


にも関わらず、薬売りは普段の調子を崩す事無く女に態とらしく問う。


『どうもこうも……、大事に育てられた世間知らずの鈍いお嬢さんじゃあないんだ。それが誰の事か分からないあたしじゃないよ』


突然の薬売りからの“相談”に、蓮は戸惑いを隠せないでいた。

時には強面の裏の人間相手に臆する事なく、寧ろ相手をたじろがせる啖呵すら切って情報の取引を行うことのある女がこんな表情を浮かべるのは珍しい事と言える。

それ程までに蓮には薬売りの言葉が予想外だったのだ。


「ほぅ、でしたら、話しは早い」

『……』


このままこの話しを聞いていて良いのか

それとも止めるべきか


相手はこの後どうでてくる?


情報の取引には相手に自分の弱さを見せてはならない

いつだって優位な立場にいなければ簡単に足下を掬われてしまう

どんな小さな過ちでさえ

相手によっては命取りに繋がるのだ―――


久しぶりに味わう困惑に、仕事の癖でつい薬売りの出方を窺う姿勢を知らぬ内にとっていた蓮。

そんな女の空気を感じとった薬売りは胸中で苦笑する。






何も蓮を警戒させたい訳ではない


次はいつ会えるとも知れぬ己が


この機に聞いておきたい事は


知りたいことは―――













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