夏目友人帳
□夕映えの君
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さわりさわりと青草が心地よい音を奏で、
さあさあと草木が風に靡き木漏れ日を揺らす。
人間の手が入っておらぬ森はまるで人ならざる者が住まう場所にも似て。
漂う静寂は柔らかであると同時に何処か畏ろしい。
だが
“がさっ―――”
不意にその森閑を打ち消すように、茂みをかき分け一つの人影が現れた。
日暮れの茜色に染まるその灰色ががった前髪から覗く目元は涼やかで整った顔立ちをしており。
さりとて下を向いたまま辺りを見回す表情には僅かな焦りが滲み出ている。
よほど必死だったのだろうか。
足を踏み出した場所は拓けた草原とはいえ、そこは目も眩むような高台の上。
それに気付いていないのか、相も変わらず己の置かれている現状を把握しておらぬその者は、後数歩進めば間違い無くそこから足を滑らせ無情にも若い命を落とすであろうことが誰の目にも明らかで
『人の子よ、まさかお前もこの崖から身を投げ己で己の命を絶とうなどという愚かな事をするわけではあるまいね?』
「っ、誰だ!?」
誰もいないだろうと思っていた折りに声を掛けられ少年は驚いた表情で顔を上げた。
それと同時に漸く自分に迫っていた危機に気付き顔を青くして後ずさる。
予期せぬとはいえその驚異から守ってくれたモノを探すように、きょろきょろと周りに視線をやるが自分以外に人の姿は見えない。
聞き慣れぬ声に少年が驚いたその一方で、姿の見えぬ声の主自身も自ら声を掛けたというのにも関わらず、少年の言動に僅かに瞠目していた。
声をかけたのだからそれに何らかの対応を示すのは当たり前だというのに、まるでそれを予想していなかったような反応は矛盾しているようにも見える。
されど一瞬瞠られたその瞳はすぐに細められ
『くく、そう脅えずとも良い。私はここさ』
“さぁ―――”
不意に芳香を放つ柔らかで温かな、けれど些か乱暴な風が吹き抜けた。
それと共に少年の傍らに堂々と根を張る大木の枝からひらりと花弁が一片こぼれ落ちる。
そちらへと首を擡げれば太い幹に背を預け一本の枝にゆるりと腰掛ける女がいた。
淡い色の羽衣を纏い高い位置でその長い髪を結った女は、風変わりな面の下で面白そうにうすらと口元に笑みを浮かべただ少年を見下ろすだけ。
その存在にハッとした表情で少年も相手を見詰め返す。
「お前は……」
『人の子でありながら私の姿が見えるとは実に面白い。しかも、何処かレイコの面影があるな』
「“レイコ”……。もしかしてそのレイコの名字は“夏目”か?」
『……そうだが』
ぽつとその名を小さく復唱してから恐る恐ると言った様子で、けれど何処か確信めいたものを混ぜた口調で少年が問えば、
微かに意外そうな響きを乗せ涼やかな声音で肯定が返ってきた。
ああ、やっぱり―――
予想していた通りの答えにすんなりと口が動く。
「夏目レイコはおれの祖母だ。……もう亡くなってしまったけど」
少年が発した言葉に女は僅かに目を見張り、けれど次の瞬間には懐かしさにも寂しさにも見える色を一瞬だけその双眸に浮かべたかと思えば、興味深げに面白そうに木の上から少年を眺め始めた。
『あの夏目レイコの孫……成る程、どうりで似ている訳か……。とはいえ、お前はレイコ程生意気ではなさそうだね』
「祖母に会ったことがあるのか?」
『ん? ……まあね、とても印象的な人間だから覚えているよ。妖相手にあそこまで出来る人の子などそうはいないからね。くく、まったく面白い娘だった』
「……レイコさん」
くつくつと咽を鳴らし心底楽しそうに告げられた事実に少年はがっくりと肩を落とした。
自分の祖母の素行についてはあまり褒められたものではないという事は耳にたこが出来る程聞いていたが、出会う妖怪皆から口を揃えてそう言われてしまうのは何とも複雑な心境である。
「……そういえば、さっきおれに“お前もこの崖から身を投げる気か”って言ってたけどどういう意味なんだ?」
ふと先程の唐突な発言を思い出し少年は不思議そうに問いかけた。
お陰で命が助かったようなものだが、声を掛けるにしては些か物騒な内容でしかない。
『ああ……、あれは言葉通りさ。ここは見れば分かる通り決して低いとは言えぬ崖の上。しかもこうして森の奥ということもあってか、極稀に疲れた顔の生気の薄い人間がやってきてはそこから飛び降りていくのさ』
「なっ」
さらりと事も無げに告げられた事実に少年は口元を引き攣らせる。
それを一瞥しにやりとした笑みを浮かべるも、次の瞬間にはどうでもよさげな声音で女は言葉を続けた。
『景色の良い場所を最期に目に焼き付けておきたくてこの場所を選ぶのかは知らないが、まあ、実のところここから見る景色は見事で特にこの時間帯の夕焼けに染まる様は格段と美しいのだがね』
「はあ……」
『ともかく、ここから身投げする人間がいるから私はお前に聞いたのさ。お前も死ぬ気なのか、とね。……今までの人間にも皆同じ様に問いかけたが、残念ながら私の声が聞こえた者はいなかったよ。その後その人間達がどうなったかなど想像に容易いだろう?』
「……」
『この声が聞こえていれば私に恐怖を抱いて身を投げずに立ち去ってくれていたかもしれないというのに、人間とは実に不便な生き物だと思わないかい? まったく、これ以上私のお気に入りの地を死に場所にしないでもらいたいものだ』
やれやれと肩を竦め言い終えたその様子は心底迷惑そうなものでしかない。
けれど、その底に隠された真意は音にした言の葉とは違い。
「なあ」
『なんだい?』
「お前は“人”が好きなんだね」
穏やかな表情で少年が発した声に、枝から投げ出した足をぶらりぶらりとゆるやかに揺らしていた女はその動きを止める。
そして暫し妙な間を開けてから問うた。
『……。……、……何故そう思う』
「“自分の言葉が聞こえていれば思い留まってくれたかもしれない”と、“自分の声が届いていればその人間を死なせずに済んだかもしれない”と、おれにはさっきの言葉がそう聞こえたんだ」
『……』
「人間は不便と言いながら自分の声が届かないことが悔しそうだったように聞こえてさ」
『……、……前言撤回だ。お前はやっぱり生意気な子だよ』
苦笑混じりの短い言の葉が漏れる。
それと共にさわりと風が吹き女の髪を混ぜた。
『私からしてみれば人の命など瞬きをする間とそう変わりない短いものだというのに、人間の中には自らその儚い寿命をさらに短いもので終わらせようとする輩がいるのが不思議でならないのさ』
面の下から臨む斜陽は既にその身を地平へと沈ませ
『自分の命を自分で絶つなど愚かなことだ。そう焦らずとも皆そのうちに自然と寿命が尽きるだろうに、たかが百年にも及ばぬ短い時間さえも待てないなど人は何とせっかちなのだろうね』
放つ陽の眩しさとはまた別の理由で細められた眼は憂いを僅かに孕み
『人間とは違い長い生を持つ妖である私には到底理解できないものなのかもしれないが、それでもどうしたってその行動には賛成しかねるのさ』
響く声音は淡々としているというのに何故寂しそうに聞こえるのだろうか。
『まあ、お前がそういった輩ではないと知って少しは安堵したよ。私達のような妖が見えるだけでなく怖がらずに話が出来る人間などそうそういないからね』
「……」
ただじっと“妖”の言葉に耳を傾けていた少年は訪れた沈黙に暫し身を委ね同じ様に夕日を眺めていた。
頭上の妖の羽衣を揺らすそよ風が少年の頬を優しく撫で
「ありがとう」
『? 何故礼を言う』
突如告げられた言葉に妖は胡乱げな顔をした。
そんな妖の様子にくすりと小さく笑みを零し、少年は視線を夕日から大木の上へと移す。
「おれはここから身投げをするつもりはなかったけど、でも、つまりはおれを死なせないように声を掛けてくれたってことだろう? 今までの人間のように声が届かないかもしれないのに、それでも諦めずに“ヒト”を救おうとしてくれたんだろう?」
『……』
自分のこの“特異な体質”を何度呪っただろう
余計なモノが見え、聞こえ、触れられるこの躰を何度罵っただろう
それでも悪い事ばかりではないと今では思えるから
“妖”全てが自分にとって嫌悪すべき対象ではないと今更ながら気付けるようになったから
だから
「だから、ありがとう」
拒絶してばかりはもうやめたのだ
「おれを助けてくれようとしてありがとう」
自分からも歩み寄ろうと思い始めたのだ
『ふふ、これだから人の子が嫌いになれないのだろうね』
頭上から降り注ぐくすぐったげで呆れたような笑い声。
そこに嬉しそうな色が乗せられていたように感じられたのが、自分の思い違いでなければいいなと少年は思った。
『“級長戸”』
「え?」
『級長戸、それが私の名さ』
「級長戸―――」
『ああ。……お前の名は? 人の子よ』
「夏目貴志」
『“夏目貴志”』
「うん」
残照の幻想的な景色のもとで交わされたそれは
まるで秘め事告げるように楽しげで穏やかで
『その名、しかと覚えておこう』
級長戸の声と共に一際優しい風が二人の間を吹き抜けた。
それが
おれとこの級長戸という妖の出会い―――
(あ、ただいまニャンコ先生)
(夏目! こんな時間までどこに行ってたんだまったく!)
(ごめんごめん。あ、そうだ御饅頭貰ったんだけどニャンコ先生食べるか?)
(おお! 食べるぞ! ……それにしても何やら嬉しそうだな夏目)
(ん? まあね)
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