他シリーズ短編

□月夜のふたり
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「今夜は綺麗な月夜ですねえ」

両手親指のみ支えにしての腕立て伏せ591回、592回、593回目。

「月の傍らの金星、木星。プレアデスもうんと美しい」

張りのある逞しい二の腕が曲げ伸ばしされるたび体が上下に起伏し、そのたび背中に載っている人物も、波に揉まれる海月のようにゆらゆらと上下する。

「それにしても……」

「594、595」

「これ、いつまで続ける気です?」

「596、597」

「ロトの血を引く我れら祖先が竜王を倒して早や数百年が経過しますが、その子孫のひとりたるあなたが、未だにこんな原始的な鍛練を毎晩やってるなんてね。

ローレシア王家の次期王位継承権者は拳ひとつで岩をも砕く屈強の戦士だと聞いてましたが、なるほど然り!です。

この腕の筋肉の盛り上がりときたら、まるでよじれた縄のようだ」

膝の下で曲げ伸ばしされる自分のものではない腕を指でつつくと、感心しているのか皮肉っているのかわからない口調で言い、揺れながらふたたび夜空を振り仰ぐ。

「うん、やっぱりいい月夜です。これで月見酒でもあれば最高なんだけどな。

リリザの街で、買っておけばよかった」

「598、599、……600」

背中に人ひとり乗せ、終始黙々と腕立て伏せを繰り返していた人物は、ようやくきりのいい回数に到達すると、がばっと上体を起こして突然立ち上がった。

乗っていた人物が、「わあっ」と叫んでまろび落ちる。それを無視して背を向けると、大きく息をついて手の甲で無造作に額の汗を拭った。

ぴったりとした戦闘用の身軽な青いスーツに身を包んだ、しなやかに逞しい肢体の黒髪の若者だ。まだ歳は二十を越えていないように見えるが、きりりとした眉の下の眼光は矢を射るように鋭い。

こめかみにも鼻先にも大量の汗の珠が滲んでいて、鞭のように張りのある背中と肩からはもうもうと湯気が上がっていた。

「ちょっと、突然終わらないで下さいよー。痛いなあ、もう」

呑気そうな不満の声に、青い服の若者は振り返らずにつめたく返えた。

「いつ終わろうが自由でしょう。それに、俺の背中に勝手に乗って来たのはあなたです」

「鍛練の協力をして差しあげたんですよ。腕立ての前は腹筋と背筋をそれぞれ五百ずつだなんて、呆れるを通り越してまったく感心します。

自分を痛めつけるのがずいぶんお好きなんですね、やんごとなきローレシアの王子殿下は」

「嫌味な敬称は要りません。名前で呼んでもらって結構。あなたも王子だし、それに俺とあなたは同い年だ。

幼い頃、我が祖国にて一度お会いしたこともあると父に聞いています。最も覚えちゃいませんが」

「覚えていないんですか?なんと」

背中から地面に落とされた人物は服の埃を払いながら起き上がり、大袈裟に両手を広げてみせた。

上向きに伸びた硬い小麦色の髪と、おどけるような光を浮かべたエメラルドグリーンの瞳の、こちらは対照的にすんなりと引き締まった細身の若者だった。

「俺はあなたにお目にかかったこと、よく覚えていますよ。子供のくせに飢えた鷲みたいな目つきをした奴だな、俺と全然似ていないけど、これが同じロトの勇者の子孫なのか、ってすこぶる不思議に思いましたからね。

ローレシア、サマルトリア、ムーンブルクの三すくみの化かし合い……おっと失礼、とこしえに友好なる三国同盟の繁栄を祝おうと、ちょうど齢五つの頃、我が国の大使と共にローレシアを訪問させて頂きました。

同時に、ムーンブルクの王女殿下も貴国をご訪問なさっていたはずです。すみれ色の髪と瞳のうるわしき王女様、女神ルビスの化身のようにお可愛かったな。

今も、ご無事でおられればいいのですが」

「……」

青い服の若者はそれには答えず、また額の汗を拭った。拭いても透明な汗は幾筋も幾筋も、濡れた黒髪の先から絶えず流れ落ちた。

闇夜にまがまがしく真っ赤に燃えた南の空を目にしてから、もう幾十日になるだろう。今はその深紅も冷えた青紫色へと変わり、遠いかの同盟国が迎えた凄惨な結末を知ることは出来ない。

大神官ハーゴンの軍勢がムーンブルクを陥落させたという一報を聞いた時、ただ驚きしかなかった。魔物が人間を襲う時代はとうに終わったと思っていた。

顔も覚えていない王女の無事を、本当に祈っているのかどうかは自信がなかった。脳裏を埋め尽くす懸念はただ、自身の力が果たしてハーゴンに通用するのかという不安だけだ。

血まみれのムーンブルクの兵士が呻き声をあげながら玉座の前で絶命した時も、どこか他人事のように見ていた自分がいた。竜王を屠った勇者とローラ姫の伝説よりはるか時は過ぎ、ロトの子孫の三国同盟はもはや名ばかりの形骸と化している。

盟邦が滅びの危機にあると言うのに、年若い王子ひとりを形ばかりに派遣するだけの父王の無慈悲さにも、全く同じ手を使って泥を被るのを避けたサマルトリア王の蝙蝠ぶりにも、侮蔑の念は湧かなかった。帝王学とはそういうものだと幼い頃より教え込まれて来た。

目に見えぬ血の絆を後生大事にしろと言われても、偉大なるロトの勇者はもうこの世のどこにもいない。ローラ姫もいない。三つに分かたれた彼らの血筋は、度重なる婚姻を繰り返してそれぞれ全く別の物へと変じている。

我々は、既に他人だった。

「そんな怖い顔をしないでください。大丈夫、王女はきっとご存命ですよ。

なにしろ我れらと同じくロトの血を引きし者ですし、噂によると花のような見目麗しさとは裏腹に、じつはかなりの魔法の手錬れだとか」

青い服の若者の心中を知らず、小麦色の髪の若者は気楽そうな口調で言って、「さあ、とりあえず今夜はゆっくりしましょう」と地面に胡坐を組んだ。傍らには革のテントが立ち、焚火があかあかと燃えていた。

リリザの街を出て以来、出会ったばかりのふたりでとめどもなく野宿を繰り返していたが、サマルトリア出身のこの王子は見た目とは違い、ずいぶん旅慣れている。

持ち前の明るさで商店での値段交渉もじつに巧妙にやってのけるし、テント立てや火起こし作業もてきぱきと迅速に行う。出会う前もひとりであっちこっちと彷徨っていたところを見ると、こうして国外を旅するのは初めてではないのかもしれない。

鍛えた体躯と剣の腕を持ちながらも、これまでろくに城を出たことがなかった自分をかえりみると、青い服の若者のみぞおちに嫉妬にも似た歯がゆさが駆け抜けた。

「あなたはいつもピリピリしていて、一刻も早くハーゴンを倒さねばと息巻いているんでしょうけど、俺はじつは、この旅が楽しみなんです。不謹慎かもしれないけど」

サマルトリアの王子は屈託なく笑った。笑うと、思いのほか幼なめいて見えた。

「ローレシア、サマルトリア、ムーンブルクの三国は偉大なる同胞なりともてはやされるけど、実際は隙あらば足元をすくってやろうと睨み合っている犬猿の仲だし、世継ぎの俺たちだって遠い血のつながりがあるとはいえ、ほぼ会ったこともない他人みたいなものでしょう?

そのくせ、ロトの子孫はことあるごとにかつての勇者の栄光を例に挙げられ、特別な血を持つんだから強くて当たり前、才能がないと生きてる意味がないみたいに扱われる。

でも、見たこともない大昔の勇者の権威を笠に着て生きるなんて、俺はまっぴらでした。だから、同じようにロトの血の偉大さに苦しんでいるはずのあなたに会って、一度ゆっくり話してみたかったんです。

こんな事態でもなければ、他国の王子同士共に旅をする機会なんてなかったでしょう。だから俺はこの縁をありがたく感じています。俺たちは他人だけど、他人じゃない。三国一の尚武を誇るローレシアの末裔たるあなたから学ぶべきことはたくさんあるはずだ。

ムーンブルクの王女も、きっと生きている。俺の勘は不思議とよく当たるんです。国同士の軋轢や勇者の血の苦悩はひとまず忘れ、邪悪を倒すため共に歩みませんか。

ロトの子孫同士じゃなく、同じ使命を持つただの仲間として」

すいと差し出された手のひらを、ローレシアの世継ぎの王子は一言も発さずに凝視した。

隣国の王子の飄々とした掴みどころのない立ち居振る舞い、どこまで本気か解らないが、少なくとも陽気な瞳の奥は凜然と澄んでいる。

(仲間……、か)

胃の腑がむず痒くなるような単語だ。兄弟王子を持たず、幼い頃より常にひとりでも生き抜いていける人間たれと教育されて来た。戦うために仲間を持てなどとこれまで言われたことはない。

かつてアレフガルドでローラ姫を救った勇者は、仲間を連れずにたったひとりで戦ったという。圧倒的な孤独を乗り越え、単身で世界を救ったロトの血を引く勇者の力。未開の大地を豊穣の国家へと変えた揺るぎない王者の血。

より色濃く受け継いでいるのは、俺か?それともこいつか?

青い服の王子はサマルトリアの王子の差し出した手を手でぱんと弾くと、ふたたび地面に体をうつぶせた。

「仲間ごっこは御免です。俺はただ父王の命に従うのみ。あなたと協力して行方不明のムーンブルクの王女の消息を探し出し、大神官ハーゴンを倒す。

安心して下さい。目的を果たして祖国に帰還するその日まで、共に旅をすることに少しも異存はありません」

「ま、また腕立て伏せするんですかー?」

唇を噛みしめ、ふたたび上体を寝かせて腕を上げ下げし始めたローレシアの王子を、サマルトリアの王子はげんなりした顔で見た。

「そのうち、脳味噌も筋肉になっちゃいますよ。絶対」

「なんとでも言えばいいさ。俺はこうして自分を追い込む以外に強くなるすべを知らない。

あんたには絶対に負けない。伝説のロトの血を引く勇者の偉業をふたたび成し遂げ、最後に笑うのはサマルトリアじゃない。我がローレシアだ」

「え、今なんか言いました?」

返事をせずに「1、2」とまた数えはじめた青い服の若者を見降ろし、小麦色の髪の若者は肩をすくめた。

「……まったく、面白いね。こういうの、火と水っていうのかなあ。ほんとに血の繋がりがあるの?俺たち。

でも、面白い。これからの旅、果たしてどんな展開を迎えるのか楽しみだな」

上下する逞しい青い背中にもう一度乗り、どっかと腰を下ろして胡坐を組む。ローレシアの王子は瞬間表情を険しくしたが、なにも言わずに腕立て伏せを続けた。

ゆらゆら揺れる夜空から、輝きを変えぬ月と星が静かにふたりを睥睨している。ひとりはひたと地を睨み、ひとりは空を見上げて悠然とほほえんだ。

「今夜は綺麗な月夜ですねえ。月の傍らの金星、木星。プレアデスもうんと美しい。

ところで、さっき名前で結構っておっしゃいましたから、これからは名前で呼ぶことにしますよ。ついでに敬語ももう止めます。

あんたがどう思おうと、俺はあんたのことを仲間だと思ってる。俺たちは他人だけど、他人じゃない。どれほど時が過ぎても、体の中の一滴くらいは同じロトの純血が流れてるはずだ。

だからさ、ねえ、そんな腕立て伏せなんか止めて、今夜はゆっくり酒でも飲んで兄弟の誓いを交わさない?俺、リリザまで戻って買って来るから。

なあ。聞いてる?なあってば。この鍛練好きの筋肉馬鹿!」




−FIN−



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