間に合わなかった宿題 910

□帰るところ
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言い付けは守ったわよ


一人ごちた。

手をかざせば、筋張った手の甲には幾つものシミが出来て、かさついた硬い爪先が、気の遠くなるほどに生きて来た年月を表わす様だった。


言い付け通り充分に生きた。


ゆっくりと細くなる命の灯を感じながら遠い日を想い返してふと微笑んだ。



キミは最期の最期まで生きィや。約束やし。たがえたらあかんよ。



一方的な約束。



どうよ。守ってやったわよ。



眦から一筋涙が零れる



恋もしたし、家族も増えた。充分に自慢出来る人生だったわ。


ギン



少しずつ視界が霞んで来る。

死期の近さを感じた。

ほんの少しだけ震えた。




何や。怖いん?




その時クスクス笑う声が聞こえた。


閉じていた瞼をもう一度開く。


綺麗に紅に爪先を染めた白い私の手を、男にしては華奢で細長い指が包んでいた。


背なから懐かしい匂いがして、慌てて振り返る。


真っ暗で誰もいない。


幽かにクスクス笑う声。


もう一度振り返ると、遠く霞む白くぼんやりと光る場所が見えた。


私はそこに向かって駆け出した。


ふわふわとなびく蜂蜜色の髪に、誰かが触れた気がして、ますます気が急く。


白い懐かしい陣羽織が一瞬だけ見えた。

背中には三の刺繍が施されていて思わず息をのむ。



置いていかないで。



叫んでいるはずなのに声が出なかった。


伸ばした自分の腕には、とうの昔に引退して羽織る事も無くなった死魄装。



ああ、夢を観ているのね。



合点がいった。
逝く前に見るという夢なのだろう。



こんな時まで置いていくのね。


何故か可笑しくなってふふっと笑みが漏れた。




何や。何が可笑しいん?




懐かしい声がした。さっき聞こえた声とは少し違う、少年期独特のかすれ声。



気がつくと一面に緑の竹林の中にいた。


耳元でクスクス笑う声がする。
なのに彼の姿は遠く、手が届かない。



待って、行かないで。



声を限りに叫んでいるつもりなのに何も聞こえない。


涙が溢れた。


精一杯伸ばした指先は、遠い昔、級友と戯れに鳳仙花の汁で染めた爪。


溢れた涙がぽたぽたと地面に落ちる。



また、声が聞こえた。




らん




乱菊




泣かんといて。




顔を上げると、一面に彼岸花が揺れている。


その真ん中の小径の先に彼がいた。


出会った頃の姿だった。


幼い手を差し伸べて、ほんの少しだけ眉尻をさげて。




ゴメンな




一言呟いて、それからまたクスクス笑った。



私はもう何も言わずただただ走った。




慌てんでいいから。

ボクは此処にいてるよ。




それでも、緩やかに上る坂道を駆ける。


もうすぐ彼の元へ届く。そう思った時に何かに躓いてよろめいた。


思わず伸ばした掌を彼の小さな手が掴む。


幼い指先と指先が絡んで


そうして、抱きとめられた。




お帰り。乱菊




耳元で彼が囁く。



ただいま



薄い胸に力いっぱい顔をうずめた。



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