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□口付けのひとつも
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「な。な。市丸ってさ。」
級友がいかにもワクワクしたような顔をして聞いて来た。
「何ん?」
「お前さ、一年の松本と一緒に暮らしてたってホントか?」
何時もは敬遠して寄っても来ないくせに、こんなときばかりは馴れ馴れしく群がってくる奴らにギンは辟易しながら応えた。
「はァ?誰が言うたんや。そんな事。」
「い、いや。女子…つうか噂で」
「噂ねェ」
ギンは、フウンと鼻を鳴らしてそれから
「知らん。」
断言した。
級友達は、彼の余りの勢いに押されて、二の句が継げなくなったまま、暫く居心地悪げに傍に留まっていたが、欝陶しげに一睨みすれば、それは、蜘蛛の仔でも散らしたかの様に逃げ去って、それでもコソコソと陰口を叩いている。
ギンは柄にもなく苛々して来て、わざと大きな音を立てて立ち上がった。
体だけは自分より大きい周りを睨み付けて、ゆっくり部屋から出た。
それまではシンと静まり返っていた教室から直ぐに歓声が上がり、益々苛々する。
誰や要らん事言うのは。
腹立ち紛れに考えるが、喋ったのは一人しかいない筈。
一つ舌打ちして窓から外に出た。
一年教室は六年教室の真向かい。大きな山桜の木が居座る中庭を挟んだ東教棟にある。
何時も授業を抜け出しては、数カ月前まで自分も所属していたその教室の授業風景など樹上から眺めながら昼寝をするのが常だった。
いつもの場所から彼女を捜す。
一際美しく光る彼女の髪を見つけて、ギンは直ぐに窓から一年教室に入った。
ざわざわしていた教室は一瞬で静まり返り、皆固唾を飲んで事の行方を見守る。
「松本さん?」
びっくりして声も出せない彼女の前に立ち塞がって。
余り見かけない彼女の殊勝な態度に、急に悪戯心が湧いて来て、つい口走る。
「一緒に住んでたいうたんやてね。」
彼女は黙って俯いた。
「噂んなって、面白がられてかなんわ。」
人差し指で彼女の唇を触った。
「そんなんやったらもっと触れといたらよかった。何や損した気ぃするわ。」
それから耳元で
「な、乱。」
出来る限り優しい声を出して見た。
そうして、すっかり固まった彼女と彼女の周囲を置いて窓から抜け出した。
桜の木の枝に座って、ちょぉ薬が過ぎたかなと思い返しながら、彼女に触れた指先を眺めた。
それから、ふと思い付いて唇で触れてみた。
ちょっとだけドキドキした自分がなんだか面白くなくて、今日の授業はサボりや。そう決めた。
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