仔狐シリーズ

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 スーツのポケットに入れていた携帯電話が着信を告げたのは、丁度湯のみのお茶を飲み干した時だった。

「あ……すみません、少し外しますね」

 申し訳ないと思いながら隣りに座る平和島さんに断りを入れ、急ぎ足で店外へ出たところで画面を確認。
 するとそこには覚えの無い番号が表示されていた。
 それを見た瞬間、私は通話ボタンを押す事を戸惑った。
 この携帯電話は日本に来てから姉に貰った特別製で、番号を知っているのは私が直接教えた相手だけに限られている。
 一般で流通している機種よりセキュリティーも万全なため、折原さんのような《表の情報屋》などでは、先ず情報を入手出来ないようになっている。
 だから、この着信が彼からでないのは確実だ。
 −−これは余談になるけれど、私は折原さんの番号を知っている。
 しかし、わざわざ自ら電話をかける必要性を今日に至るまで一切感じていない。
 −−まあ、そんな事は置いておいて。

 手の中で暫く震え続けていた携帯のバイブ機能が停止し、着信が切れたことを告げる。
 留守電機能が作動している様子もないので、このままで何もなければただの間違い電話であったと処理できる。
 そうでなければ−−相手が《西東紫》だと確信して電話をかけてきているのであれば−−少しばかり対応を考えなければならない。
 最悪の場合この街を離れなければいけないけれど、ここは私が初めて自分の意志で一年以上住んでいる土地であり、何よりこの街で出会った人達と離れがたいと思ってしまっている。

 そうだ。
 私は、この街が好きなんだ。

 生を受けて以来、人生の殆どを過ごしてきた海の向こう側では決して抱く事がなかった《愛着》というモノを、私はこの街に持っている。
 だから−−出来れば《最悪な事態》だけは避けたい。

 手の中の携帯が、着信を知らせようと再び震え出す。
 画面に映し出されたのは先程と同じ九桁の番号だ。
 今度は一切の迷いなく、私は通話ボタンを押した。




***





 後から思えば、ここまでの警戒心は全くの杞憂に終わる事になる。

 けれど、この電話を切欠にして今回の物語の歯車が加速し始めた事には変わりないだろう。

 そう、これは

 罪を歌い《愛》を振りまく刀の物語

 そして

 嘗て《お人形》と呼ばれていた西東紫が《愛》を知る為の物語

 二つの物語が、いよいよ重なろうとしていた−−




***





『こんばんは、××××さん……いえ、今は西東紫さんでしたね。わたしの事、覚えてますか?』

 通話口から届いた声は、予想外のものだった。
 予想外に−−懐かしい声だった。
 あの頃より少し大人びたように聞こえる声。
 それが耳に届くと同時に私は内心安堵する。
 電話を寄越した相手が《彼女》だと言うなれば、心配していた番号の入手経路も検討がつく。
 どうやら想定していたよりも事は穏便に済みそうだと判断した私は警戒を緩め、相手の問に対する返事を口にする。

「こんばんは。勿論、覚えてますよ……闇口崩子さん」

 闇口崩子−−
 嘗ての骨董アパートの住人
 《殺し名》序列第二位の闇口と《生涯無敗》の血を引く子供
 《暗殺者》から生まれた《死神》の妹。
 そして−−私が初めて関わった同世代。
 ファーストコンタクトはあの年の十月だけれど《ただそこに居るだけの存在》でしかなかった私が、彼女と実際に関わりを持ったのはそれから少し後−−赤い姉に連れられて、彼女の里帰りに同行した時だった。
 あの頃の昔話は割愛するとして、今回の電話はそんな彼女との実に数年振りの接触となる。

「驚きました。まさか貴女から連絡があるなんて……情報元は姉ですか?」

『ええ、貴女のお姉さん−−哀川さんが快く教えてくれましたよ』

 やっぱり、と思わず苦笑してしまう。
 電話の相手がわかってから一番高い可能性を予想していたが、その通りだった。
 私に黙っていたのは、単なるサプライズみたいな感覚なのだろう。

『実は、わたしも驚いてます。話には聞いていましたが……本当に変わりましたね』

「電話越しでも分かります?」

『ええ−−以前の貴女なら、わたしとこんな風に会話する事もありませんから』

「……そうでしたね」

 あの頃の私は、ただの《お人形》だった。
 何を見ても、何を聞いても動じない。
 世界どころか、自分自身の事だって本当に何とも思っていない−−意志の無い中身が空っぽな《お人形》。
 そんな《化け物》以下の存在に命を吹き込んでくれたのは、一人の−−欠陥だらけの青年だった。

『−−さて、少し前置きが長くなってしまいましたね。今日連絡を取ったのは貴女に協力して欲しい事があるからです』

「……協力?」

『はい。少し込み入った事情なので、詳細は本人から直接聞いて貰えればと思います』

 予定ではもう直ぐそちらに着くみたいですから−−
 と、言う彼女の言葉が耳に届くと同時に、私の視界に《ソレ》は飛び込んできた。

 夢かと思った。
 幻覚かと思った。

 でも−−いた。
 本当に−−いた。
 夢じゃない。
 幻覚でもない。

 最後に会った時より、短くなった髪型。
 背もあの頃より少し高い。
 顔付きも、すっかり大人のそれになっている。
 服も見慣れた私服ではなく、落ち着きのある黒いコートにスーツ姿。
 全部、姉から聞いていた通りだった。

 《彼》の存在を完全に認識した途端に、私の中で何かが一気に溢れ出す。
 そして、恥も外聞も
 形振り構うこともなく−−


「いーちゃん……っ!」


 私は《彼》の名を叫ぶ。
 まるで、迷子の子供が親を見つけた時のように−−《彼》の元へ駆け出し、縋るように抱きつく。

 そして、あの時と同じく

 ただ、ただ、泣いた−−

















「久しぶりだね−−紫ちゃん」



 昔と変わらない彼の暖かな腕の中−−
 それに安心してしまったのか、私の意識は直ぐに暗転した。



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