そういった腑に落ちない「何か」を抱えながらも、結局その話はそれ以上発展することなく終了してしまった。何故なら、あの人が急に話題を変えてしまったからだ。

「そうだ、そんなこと言ってる場合じゃないよ!腕の怪我、大丈夫なのか?」

こういうことはざらにあった。
話の流れが核心に触れる内容に近付いたり、自分の本音を明かさなければならないような雰囲気になった場合、大概あの人は会話の流れを逸らして本題を変える。どうあっても自分のことは話したくないとみえる。この時もまた、助けに来たことに対する明確な答えを明るみにしないまま、論点を俺の怪我へと移行させた。
しかしそういった邪推を抜きにしても、血まみれのハンカチは大袈裟なまでに事態の重大さをアピールしていた。あの人はきつく結ばれたそれを丁寧にほどき始めたが、凝固した血液によってハンカチは傷にぴたりと貼り付いていた。端からゆっくりはがしていくと、じわじわと表面に血がにじんだ。

「これは……、大丈夫じゃないな。でも傷は大きいけど、血はすぐに止まりそうだ。治りは早いかもしれない」

痕は残るだろうけどね、と言いながら、あの人はほどいたハンカチを再びきつく巻いた。
確かにその傷口は見るからに痛々しかった。切り付けられた範囲の割に、主要な血管に達する深さではなかったというのが、不幸中の幸いと言ったところか。
家族や友達はこれを見て、いったいどのような顔をするだろう。俺は布で包まれていく腕を見ながら、あの人が連中に向かって叫んだ言葉を繰り返し思い出していた。

(この子の身に何かあったら、か……)

一般地球人によってこのような傷を付けられた以上、いくらサイヤ人の血を引いているとはいえ、不測の事態が起こらないとは言い切れなくなった。「何か」はいつでもどこでも起こり得る。
そうなった場合、親は恐らく泣くだろう。祖父母は言わずもがなだ。そして誰よりも、ずっと仲良くしてきた悟天が悲しむに違いないと思った。奴のことだから立ち直れないほどに泣き叫び、落ち込み、起き上がることすらできなくなるのではないだろうか。
つまりこの誘拐事件とは、俺ひとりの身勝手だけで済まされるような問題ではなかった。両親、家族、友達、仲間、交流のある全ての人々にまで関わる重大な事だったのだ。
そうさせないために、あの人はここへ駆け付けた。俺を助けることで、身の回りの人々をも悲しみから遠ざけようとした。あの人はそこまで俺達のことを思ってくれていたというのに、俺はそんな心に全く気付かず、自分の嫉妬心のみで行動してしまった。広い視野で物事を見ていたあの人に比べ、思慮が足りないにも程がある。考えれば考えるほど自分に嫌気がさした。
それでも、今更どうあがいても、やってしまったことは消せない。負った傷も消えない。このまま家に帰り、傷を見た両親に叱られ、あの人にかばわれ、更に自己嫌悪に陥る。俺を待っているのはきっとその流れだ。
表情を曇らせた俺を見て、傷が痛んでいるものだと勘違いしたらしい。あの人は慌てた様子で怪我の具合について尋ねてきた。

「もう痛くないよ」
「本当か?それならいいんだけど…」
「もう痛くないけどさ、俺、……怒られるよね?」
「怒られる?誰に?」
「ママとか…、でもたぶん、パパが一番怒ると思う」

泣きそうな声で告げたところ、あの人は一瞬びっくりしたような顔をした。しかしその理由を話すと、すぐさま納得した。

「“貴様それでもサイヤ人か!”、……確かに言いそうだな」

あの人は父親の口調を真似てつぶやき、何かを考え込むようなそぶりを見せた。荒れた景色の向こう側を見遣ったまま眉間にしわを寄せている。俺もそれに合わせて一緒に押し黙った。
そのまま数分が経過した。

「あ、そうだ!」

沈黙を打ち破って、あの人は明るい声を上げた。そして上着を脱ぐとそれを俺に着せた。ぶかぶかの長い袖をまくろうとした時、身体が浮いた。抱き上げられたのだ。何事かと慌てる俺を意に介さず猛然と向かった先は、すぐ近くの街だった。
それほど栄えていない見知らぬ街の中心部をさまよい、個人経営と思われる小さな薬局にたどり着いた。そこで買い込んだ物は、大量の包帯と数種類の消毒液だった。あの人は買い物袋を抱えながら、どういうわけか少し楽しそうな顔をしていた。

「これで準備は万端だ。トランクス、今日のことは俺達ふたりだけの秘密にするぞ」

唐突な提案に俺は目を丸くした。内容云々の前に、これまで一緒に過ごした時間の中で、あの人が場を仕切ること自体が非常に珍しいことだった。

「今日トランクスは、いつもみたいに犯人を自分でやっつけた。そしていつもみたいに帰ってきた。もちろん怪我なんかしてない。みんなの前では、そう言っておこう」
「え?でも、ばれるよたぶん!この傷でっかいし、俺、血まみれだし…」
「だからこれを買ってきたんじゃないか。傷の手当ては俺がするよ。傷が傷痕になっちゃえば、“魔人と闘った時の傷だ”ってごまかせるでしょ?」
「うーん……、大丈夫かなあ」
「それで、そのことでトランクスに頼みがあるんだ」
「頼み?」
「……俺がトランクスを助けたってこと、父さんには内緒にしててほしいんだ」

話によると、最初に連中から電話が行った際、俺が誘拐されているということをあの人は母から聞かされていたらしい。母が「いつものことよ」等と言って全く気にしていなかったというのは、俺の予想通りだ。
ところが電話はその後も数回続いた。そこであの人は不審に思った。本来のトランクスならば、そのような電話の前に事態を鎮めて帰宅するのではないか。すぐに帰宅しないということは、何か事情があるのではないか。考えているうちに、連中からの電話を相手にしない家族とは逆に不安が増してきた。どうやらあの人の頭の中では、「トランクスがふざけて犯人と家族をからかっている」という発想はなかったようだ。
真相を確かめようと、あの人はついに自分で電話に出た。俺の声を直接聞いて状況を読み取ろうと思ったのだそうだ。
そこで俺の口から飛び出した言葉。
「助けて」
それがあの人にとって決定打になった。助けを求める声は、あの人にとって平和と地獄とを切り替えるスイッチなのだ。続けて受話器から聞こえてきたのが俺の泣き声と連中の慌てふためく声だったことで、なすべきことが確定した。
しかし反射的に家から飛び出そうとしたあの人は、いきなり背後から声を掛けられた。
「あまりあいつを甘やかすんじゃないぞ」
振り返るとそこには父親が立っていて、いつもながらの不機嫌そうな表情でにらみつけてきたのだという。
心を見抜かれていることに動揺しながら、それでもあの人は自分の決めた選択肢を変えなかった。「分かってます」と理解したふりをして、こっそり裏口から外に出た。向かった先は俺達の乗る車。その目的は俺を助けること。つまりあの人は、父親の忠告に反して俺を甘やかしてしまったことになる。

「嘘をつくのは良くないんだけど…。でも、これが父さんにばれたら、俺も絶対怒られると思うんだ」

そのため、俺が父親の反応に対する恐れを示したことに便乗させてもらおうと思ったそうだ。
恥ずかしそうな表情を浮かべるあの人を見て、俺は少しだけ安心した。俺達ふたりの思惑が一致したことに感動を覚えたというのもあるが、それよりもあの人が、ふたり「だけ」の秘密にしようと言ってくれたことが嬉しかった。
秘密の共有とは、他の誰にも邪魔されない絆を手に入れたことと同じである。その絆があれば、恐らくいつまでも心の繋がりを感じていられる。それは単に手を繋いでいるだけでは分かり合えないものだ。俺は迷わずその話に食いついた。
とにかく必死だった。この騒動はもともと、俺が抱いた不安が発端になっている。だからあの人と心を繋いでいられる提案ならば、それで不安が少しでも和らぐならば、何にだってすがりつきたいと思う。そうすることで自分が嬉しい気持ちを味わえるとしたら、こんなに好都合な話はない。



それから西の都に着くまで、当たり障りのない会話を続けた。周囲はすっかり暗くなっていた。並んで伸びた影はいつの間にか夜に交ざり、その姿はもう見えなかった。
さっさと飛んで帰れば良いものを、都が見えてきた辺りから俺達は歩いた。どちらから言い出したわけでもなかった。手を繋いだまま海沿いを過ぎ、公園を抜け、繁華街を渡る。その間ずっと本心は打ち明けず、お互いの本音にも触れなかった。
秘密を共有したことで少なからず心は満たされたが、あの叫び声が小骨のように引っ掛かっていることには変わりない。しかしその理由も未だによく分からない。
助けに来てくれたことは現実で、あの人が俺を傷付けたり泣かせたりしたくないというのも事実だ。それならもう、このことに関しては悩まない方が良いのだろうか。もたらされた現実に満足していれば幸せになれるのだろうか。

(あ、だけど俺……)

そこで気が付いた。
俺は結局、自分がどうしてわざと誘拐されたのか、その理由を告げていない。あの人はそれを深く追及せず、すぐに話の軌道を変え、俺の事情をうやむやのままにしてしまった。
一歩、また一歩と家に近付く。あの人とふたりきりでいられる時間はあとわずかで、もうすぐ俺達は家庭の喧騒に足を踏み入れる。きっと言い訳とごまかしで懸命になり、俺の本心は永遠に二の次なのだろう。
傷が人目に触れないようにとあの人が着せてくれた上着の、ぶかぶかの袖を見た。やはり大人用のサイズは大きすぎる。袖をまくらなければ手が出てこない。これを着こなせるようになるのは何年も先の話だ。どうあがいても、俺はまだ子供なのだ。
それなら物事を順序よく伝える力量がなくても、気持ちを伝えるための語彙を持ち合わせていなくても、何の問題もないではないか。何より、もっとうまい説明の言葉や言い回しを身につけたところで、伝えたいことの本質が変わるわけではない。
それなら、今しかない。
俺は自宅を目の前にして立ち止まり、繋いだ手を離した。
あの人は不思議そうにこちらを見ている。俺はその表情をうかがいながら、一度だけ深呼吸をした。


「トランクスさん」
「何?」
「トランクスさんはさ、俺のこと、好き?」
「ん?急にどうしたんだ?」
「俺は、トランクスさんのことが好き」
「は?」
「あ、間違った!好きじゃなくて、大好き」
「大好きって……、え?」
「大好きだから、わざと捕まったんだよ」
「…どういうことだ?」
「それは…、トランクスさんも俺を好きならいいなと思って」
「何だって?」
「…もし嫌いじゃなかったら、来てくれるかなって思ったんだ」
「あ……。ああ、そういうことか…」
「今日はありがとう。助けてくれてありがとう。俺、すごい嬉しかった。トランクスさん、かっこよかった。ほんとにかっこよかったよ!」


流れのまま一気にまくし立ててしまえば、別にどうということもなかった。あれだけ悩んでいた割には存外あっけないものだ。思っていることを素直に発言することに、どうして今までためらいを感じていたのか。やはり回りくどい誘拐事件を起こすより、断然こちらの方が楽だった。
言いたいことは言った。
俺の告白をあの人はどう思っているだろう。みすみす誘拐された理由を聞いて、怒り出すかもしれないという不安はあった。しかしあっけに取られた表情の中にもどこか照れた様子が見てとれるので、嫌悪されてはいないようだった。
俺は返答を待った。緊張を和らげるため、袖をもう一段まくってみた。

「大好きって、本当にそう思ってるのか?」

いつの間にかあの人が目の前に立っていた。照れの交じった表情が消え、ひどく真剣な顔で俺を見下ろしていた。

「ほんとだよ!」
「……どの辺が好きなんだ?」
「え…、えーと、全部!」
「全部?」
「トランクスさんかっこいいし、優しいし、強いし、…あぁもう全部だよ!嫌いなとこなんか何もない!!」

その途端あの人は表情を崩して笑い出した。笑いすぎて目の端には涙までにじんでいる。何がそんなに面白いというのか。怒られるならまだしも、まさかこんなに笑われるとは予想外だ。今度はこちらがあっけに取られる番だった。
ひとしきり笑った後、あの人は呼吸を整えながら俺に向き直った。


「好きって言ってくれてありがとう。すごく嬉しかった。トランクスにそう言ってもらえると、……今までのことが、全部報われたような気がする」


ありがとう、本当にありがとう。あの人はお礼の言葉を何度も繰り返した。
そこまで感謝の意を示されると、さすがに恥ずかしくなってくる。俺はただ、トランクスさんのことが好きだという気持ちを告げただけだ。それなのにどうしてそこまで感謝されるのだろうか。
「好き」という言葉を言ってそんなに喜んでもらえるなら、俺はこれからも何度でも言ってあげるのに。そう思った時、あの人が俺の背中をぽんと叩いた。

「よし、それじゃ家に入ろう!打ち合わせ通りによろしく頼むぞ!」

一際明るい声で言いながら、あの人は玄関に向かって駆け出した。
ああ、またしても話を逸らされた。話題を変えられてしまった。そういえば最初に質問した内容の答えを、俺はまだ聞いていないではないか。
話の流れを引き戻そうとも思ったが、ひとまず俺は、駆けていくあの人の背中を追うことにした。



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