01/25の日記

23:04
保健室は恋する場所ではありません
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 午後の授業が始まった校舎は、先ほどまでの昼休みの賑わいが嘘のようにしんとしている。
そんな中、職員室から出てきた背の高い白衣の男は、誰もいない廊下を歩きだした。両手には書類を抱え、ポニーテールより少し低い位置で結わえた銀色の髪を揺らしながら廊下を進む。
 
 彼はこの学園の養護教諭スクアーロ。職に就いてまだ半年の若い新米教師だ。
 いわゆる保健室の先生というこの職業はなかなか空きがなく、資格を持っていても勤務校が決まらず、仕方なしに他の就職先を選んでいった仲間が多い中、幸運にも彼は望んでいた職を得ることができた。体調を崩し辞めざるをえなかった前任者には申し訳ないが、教師となった初日、白衣に腕を通した時の胸の高鳴りを忘れることができない。想像以上の仕事量と雑務に追われる日々だけれど、スクアーロは今のところ充実した毎日を送っていた。
 
 そして今日は、近々実施される身体測定についての注意事項を受けるため、教頭に呼び出されたのだが…。

「あっ、チャイムが鳴りましたね。それでは当日よろしくお願いしますよ、スクアーロ先生」 

話が長いことで有名な彼は、延々と同じ話を繰り返し、10分で終わりそうな説明を、ゆうに1時間かけて話した。昼休みの終わりを告げるチャイムを耳にして、やっと解放してくれたものの、とっくにランチの時間は過ぎていた。朝食をとらず、毎朝コーヒーだけで済ませるスクアーロは、出勤途中のパン屋で買った、タルタルソースたっぷりのサーモンフライサンドと、ブラックペッパーがきいたカリカリのベーコンエピが頭に浮かび、教頭の話をメモに書き留めながら、心の中で何度もため息をついていた。


 保健室に着くと、スクアーロはスライド式のドアの取っ手に指先をかけ、わずかにそれを開いた。授業中なので生徒はいないはずだが、一応辺りを見回して人がいないことを確認すると、開いた隙間にサンダル履きの足を突っ込んだ。両手が塞がっている時は、これが一番手っ取り早い。
そのままガラガラと扉を滑らせ、急いで室内に入ろうとした、その時――。

「教師が足でドアを開けるとは驚きだな」
「っ!」

誰もいないと思っていた室内から声がして、彼は声をあげるのも忘れるほど驚いて足を止めた。見れば、誰かが自分の席に座っている。制服姿なのはわかるが、逆光で顔はよく見えない。けれどその体格と声、何より保健室に来てベッドではなく教師の席に陣取る生徒など、この学園には1人しかいない。

「――また今頃登校かぁ」

とんでもない場面を見られたのが他の生徒や教師でなく、彼であったことになんとなく安堵したスクアーロは、そう言って器用に足で扉を閉めた。

「おい、」
「しょうがねぇだろ、手が塞がってんだから」

本来なら生徒を前にして教師が発する言葉ではないけれど、相手が彼…XANXUSだと、どうも気が緩んでしまう。もちろんそれは良いことではないのだが、この半年の間、週に2、3度の割合で保健室にやってくる彼は、生徒というよりも弟のような気がして、つい軽口をたたいてしまうのだ。
 XANXUSは俗に言う“保健室登校生徒”で、ここに来る以外、自分のクラスにはほとんど姿を見せない。けれど、父親が地元の有力者で桁外れの寄付金を納めている上、学園の理事長とも知り合いらしく、彼に強く意見しようとする教師は少なかった。それどころか、スクアーロが着任するまでほとんど登校せず、出席日数が危うかったことを思えば、たとえ保健室といえどこうして登校しているだけで、彼の担任など内心胸をなで下ろしているぐらいだ。


「昨日も一昨日も来なかったな。何してたんだぁ?」 
 
そう語りかけながら、スクアーロは自分の席を占領しているXANXUSの横を通り過ぎ、書類をデスクの上に置いた。するとそこに見覚えのある紙袋と、その横にくしゃくしゃのビニールが放置されているのを見つけ、ぴたりと動きが止まる。

「……これ、」

すぐにそのビニールが、サーモンフライサンドの残骸だと理解した彼は、とっさに紙袋をつかんで中をのぞき込んだ。

「う゛ぉおおおぃ!XANXUSーッ、オレの昼メシぃ!!」

その声に、背中を向けていたXANXUSは、椅子をくるりと回転させたかと思うと、ニッと口元を緩め、スクアーロの目の前で手に持っていたパンのかけらを口の中に放り込んだ。

「う゛ぁあああ!おまえ、それ…っ!」

スクアーロはなすすべもなく最後のひとかけを咀嚼するXANXUSの唇を見つめる。サンドイッチどころか、ベーコンエピまで平らげた彼は、膝に落ちたパンくずを片手でさっさと払いながら平然と言い放った。

「コーヒー淹れてくれ」








 ここは喫茶店じゃないとか、オレはおまえの召使いじゃないとか散々文句を言いながら、それでも結局数分後には、淹れたてのコーヒーをXANXUSに手渡していた。
彼は椅子に座ったままそれを受け取り、席と昼食を奪われたスクアーロは、まだ何かぶつくさ言っていたが、デスクに寄りかかると、お互い向かい合うかたちでコーヒーを啜る。

「まだこんな不味いインスタント飲んでるのか」
「文句言うなら飲むなぁ」

朝から何も口にしていないので、空腹を紛らわすため砂糖をいつもよりかなり多めにしたのだが、明らかに入れすぎてしまったようで、彼はひとくち飲んで眉間に皺を寄せた。

「…2日来なかったから油断したぜ」
「今日も来るつもりはなかった」
「まぁ、さすがに3日連続で休むと担任から連絡が入るからなぁ」
「そうじゃねぇ」

不自然なほど強く否定する口調に、スクアーロは思わずカップから顔を上げXANXUSを見た。すると今までとは打って変わった真剣な表情で、飲みかけのコーヒーを見つめている。

「な、なんだよ?そんな思いつめるほどマズいのか?」

そう言うと、XANXUSは心底呆れたようにため息をついた。

「バカ、コーヒーの話じゃねぇ」
「ばっ、教師に向かってバカはねぇだろ!」
「――はぁ…。てめぇみたいなヤツに話そうって考えた自分が情けねぇ」
「…?話すって何をだ。なんか悩み事かぁ?」

普段悩みがある素振りなど見せたことのない彼の思わぬ告白に、スクアーロは正直驚いた。
保健室登校する生徒には、個人差はあれ悩みを抱えている場合が多く、そのメンタルケアに関して学んではいたが、どうもそれらとXANXUSが結びつかないのだ。
けれど、横柄な態度で憎まれ口をたたき、強がってはいても彼はまだ17歳。考えてみれば、悩み事のひとつもない方がおかしい。それに、少なくとも自分を信用しているからこそ出た言葉であるのだろうと思い、努めて柔らかい口調で言った。決して無理に聞き出そうとしてはいけない。

「先生で良かったら何でも聞くぞ。言えば少しはすっきりするかもしれないしなぁ」

するとXANXUSは顔をあげ、スクアーロを見た。彼はそのまま何も言わず、ただじっと見つめてくる。その真っ直ぐな視線と微妙な沈黙に耐えきれなくなったスクアーロは、思わず目を逸らすと、実にわざとらしい咳払いをした。


「好きなやつがいるんだ」
「―――へ?……」
「口を閉めろ」
「あっ、あぁ…」

口を閉めるのをうっかり忘れるほど、それはあまりにも意外な答えだった。高校生らしい悩みだといえばそうだが、彼が普通の生徒たちと同じように恋愛ごとで問題を抱えているというのが、いまいち腑に落ちない。噂では、女性に対して百戦錬磨、百発百中だというXANXUSが…。いや、けれど彼のようにプライドが高いと、同年代に恋愛相談するという選択肢はないのかもしれない。

「、そうかぁ…。話してくれて先生は嬉し、」
「好きになったら駄目な奴を好きになっちまった時はどうしたらいいんだ」
「―――へ?」

まったく同じリアクションを繰り返すスクアーロを無視して、XANXUSは続ける。

「駄目だってわかってても、自分じゃどうすることもできねぇ。気がついたらそいつのことばっかり考えてるし…、息が…苦しくなることもある」

なんということだ。噂とはまるで違い、彼は初めて恋をした中学男子みたいなことを言っている。その姿に、教師というより兄のような気持ちになったスクアーロは、なんとかしてやりたいという思いが強くなる。
 が、実を言えば、愛だの恋だのいう問題は、スクアーロが最も不得手とする分野だった。

「わ、わかるぞぉ、おまえのその気持ち。それで、好きになったら駄目っていうその相手はあれかぁ?人妻とかそういう……」

それを聞いたXANXUSは、見たこともないような顔をして、ぽかんとスクアーロを見つめた。それから哀れなものでも見るような目をして、また深くため息をつく。

「…やっぱりてめぇなんかに言った俺が馬鹿だった」
「えっ、なん…、人妻じゃないなら、家庭教師の女子大生とかか?!」
「―――もういい」

XANXUSはおもむろに席を立つと、持っていたコーヒーカップをスクアーロの胸元に押しつけた。
「お、おぃっ、」返されたカップと自分のもの、2つを両手に持ちながら、彼は焦ったように声をあげる。

「人妻とか女子大生とか、てめぇAVの観すぎだろ」
「A…ッ、おまえが好きになったら駄目な相手っていうから…」
「それがなんで人妻と女子大生に直結するんだ、単細胞」

何か言おうと口を開きかけたスクアーロに、突然XANXUSがぐいと顔を寄せ、危うくコーヒーをこぼしそうになる。

「好きになったら駄目っていうのは、例えば同性とか、教師と生徒ってのもあるんじゃねぇのか」
「!!」

目を見開いたまま、まばたきもしないスクアーロにXANXUSは更に顔を近づける。

「――なぁ先生。教えてくれよ。俺はどうすりゃいい?」

そう言い終わった唇がそのまま近づいてきて、止めなければと頭では分かっているのに、驚きのあまり身動きができない。
「…あ、ぁ、あ…ちょっ…まっ、」
焦っているのを悟られまいとすればするほど、言葉にならない声が漏れる。思いきってコーヒーを顔にかけるべきか。それとも頭突き?早くXANXUSを制止しないと、取り返しのつかないことになってしまう。
とにかく迫ってくる体を押し返そうと、スクアーロがカップを持つ手に力を入れると、反動で飛び散った褐色の飛沫が白衣の袖口に小さな染みを作った。
 するとXANXUSが、突然ぷっと噴き出した。

「なんて顔してやがる、冗談だ」
「…ぇっ……」


 呆然と佇むスクアーロからあっさり身を離すと、彼は踵を返しドアへ向かう。その背中を脱力したまま見送っていると、XANXUSは扉を閉める間際、一瞬ためらうような素振りをしたあと、少しだけ唇を動かし何か言ったように見えた。
けれど耳の奥がじんじんと熱くて、その言葉はスクアーロには聞こえなかった。








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