「ハナコさんっ、僕、貴方のこと――」 「レギュっ!」 走り出したハナコさんは、僕の言葉を制すために足を止めた。悲しげに響いた僕の名前に胸がキュウ、と痛む。 「こんなときは、優しくしな、いで。忘れようと、してるの…に…」 「だけど、」 「だからっ!サヨナラするんなら、出来るだけ早く忘れさせてって言ってる、の…!」 「そう…ですね」 何が悔しいのか、後ろめたいのか、ハナコさんは振り返って下唇を噛んで見せた。血が滲みそうなくらい、ハナコさんの唇には深く深く歯が食い込んでいた。 「これで、サヨナラにしましょう」 「レ…ギュ…」 「僕は…イエ、何でもありません。サヨナラ」 甘い言葉を飲み込んで、苦い苦い言葉に書き換えた。と言っても、こんな時の「アイシテル」は苦い苦い、サヨナラなんかよりもずっと苦い言葉なのかもしれないけれど。 「好き、だった…」 苦くて甘い、例えるならスプーン半分の砂糖を入れたコーヒーのような、そんな言葉を吐いたハナコさんのパタパタと遠ざかる足音が響いた。まるで微弱な電流が流れたように、僕の足はむず痒い感覚に襲われた。 僕はきっといなくなる。サヨナラ、サヨナラ。「サヨナラ」を受け入れたように去っていったハナコさんと対照的に、僕はその場から動けなかった。少しでも足を動かそうとすれば、ハナコさんの消えた方向に向かってしまいそうだったから。微弱な電流は止まろうとしない。僕はほんの少し歩いて、ハナコさんの最後に止(とど)まっていた場所に座り込んだ。サヨナラすべきものの多さに気付いた。ホグワーツのあらゆる教室、校庭、湖、地下牢のような薄暗い寮、そこにいる友達、家族…は今更いい、けど兄さんにはサヨナラをしないとならないかもね。僕は、動けなくなった。動き出したらきっと行きたいところがありすぎて、四方八方に身体が弾け飛んでしまうだろう。だから、一番大切なハナコさんに告げられただけ幾分マシだと言い聞かせて、今は落ち着くまでここに座っていようか。――ああ、ついでにこの床にサヨナラを言っておこう。 目を閉じて、また開いたとき、僕は床にひとつ、ふたつ、親指の爪ほどの水溜まりを見付けた。じっ、と見つめていると、みっつ、よっつ、と水溜まりは増えていった。 サヨナラこの世の全てのモノ。サヨナラ僕のアイシタヒト (もう一度触れたかった)(今日は運命を憎む日) end. 20090807 |