アドレナリン
□桜の季節
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短い命だからこそ引き付けるのか。
花のような君がくれた沢山の日々を忘れない。
□桜の季節□
おもむろに、髪を弄った。
彼女の柔らかな髪質に指が滑る。
君に似合わないゴツゴツしい指だった。
「どうしたの?」
「いや、…何でもないけど」
何でもないけど、触りたく成ったりする。
彼女、…さくらは僕に取ってそんな存在だった。
「変な健司さん」
あ、笑った。
もうずっと一緒に居る筈なのに、ますます君が欲しくなる。
細い腕も、首も、以前よりずっと痩せた頬も、何もかもが愛しかった。
「早くお家に帰りたいなぁ。優くんも、強がってるけど淋しいよね…」
まるで少女のような彼女は、僕の愛すべき妻で一児の母親だ。僕らの息子は、この先の現実を早くも理解している。
別れたく無い。行かないで欲しい。いっそ僕も、君と一緒にゆきたい。
そう言った僕を、君は涙を溜め叱った。
優くんを一人にしないで。
僕は父親としてすべきことを忘れていたのだ。叱られて当然だった。
結婚して五年が経とうとしていた二年前の春。桜の季節の中、君が病に侵されていることを知らされる。
呆然と、した。
僕は夫として何をしてあげられただろう?それからの毎日は自問自答の日々を過ごした。恐らく、彼女もそうだったに違いない。
泣いた。こんなに泣いたのは子供の時以来だった。僕は子供だったのだ。彼女に包まれ、愛を受ける、子供だったのだ。
「愛してるよ」
「私も愛してるわ、幸せよ、私」
あの宣告から二度目の春が来て、君と過ごせる日々を1日また1日と削ってゆく。
さよならと言えるだろうか。まだ幼い息子にはどう伝えれば善いだろうか。
何より僕は、……
そんな気持ちが消化しないまま、別れは呆気なく訪れる。
さよならを言う間も無く、一度意識を失った君は二度と瞳を開かない。
君を失って迎える初めての春。
色を失った日常がぐるぐると回るだけ。
葬式を終え仕事が始まり、日常は容赦なく僕を現実に引き戻す。
「いらっしゃいませ」
「コーヒーを、…ホットで」
お腹が空いているのかも知れない。喉もカラカラだ。
最後に食事を取ったのは何時だろう?
…思い出せなかった。
さくら。
君のことばかり考えているよ、さくら。
僕は弱い人間だ。君との毎日で、こんなにも君を渇望したことは無かっただろう。さくら。何もかもが遅かったんだ。
「お客様」
「…………、」
自分が呼ばれていることに気付くまでしばらく掛かった。この喫茶店には何度か足を運んだが、マスターに声を掛けられたのはこれが初めてだ。
「はい、何でしょうか…」
「あの男の子が、ずっと貴方を見ていたものですから…」
…優、
そういえば、優はちゃんとご飯を食べていたか?学校は?どうやって生活していた?
さくらが居なくなってからの数週間、僕はまともな生活も意識も持てて居なかった。
「会計を……」
「かしこまりました」
ここ数日の優との日常は、どんなものだったか。それすら思い出せない。
「優、ごめんな、父さん…」
「僕、しっかりするよ。母さんの代わりになるよ。頑張るから、だから、…」
さくらに守られてきた。ずっとずっと、さくらは僕達を守ってきた。
情けない父親を、この子も守ろうとしてくれていたのだ。
この子もさくらと同じ、愛情を知る優しい子だった。
「優、ごめんな。父さんしっかりする。父さんも、お前のことをしっかり守っていくから」
さくら。
さくらからの宝物。
優。
君が伝えたかったことは、ちゃんと伝わっている。
愛を知り愛を守ること。君からまた教えられた。
儚く短い命でも、何年も続いていく生命を生み出すこと。
僕もまた、そのような人になりたい。
「優、帰ろう」
「うん…!」
繋いだ小さな手は、これから沢山の夢を掴むだろう。
僕は君に伝えていきたい。
君の母親が、いかに素晴らしい女性だったか。
そして君に感じて欲しい。
沢山の愛が、その手の中にあったこと。