Treasure

□不器用と戯れ
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千尋と過ごす午後。
仕事は山のようにあるけれど、そんな事も気にせず過ごせる時間が何よりも愛しかった。
どんなに忙しくても、愛するお前とこの時を・・・。





* 不器用と戯れ *





静かな午後だった。
いや、静か過ぎた。
普段であれば、この執務室に自分の仕事を持ち込んで千尋がお茶を啜っている時間だ。
他愛ない話をしながら、進む作業も進まず、けれど、そんな時間が自分にとって何よりの癒しだった。
アシュヴィンは、いつも千尋が飛び込んでくる扉をじっと見ながらなぜかこの部屋にやってこない自分の后を心配していた。

『アシュヴィン様、如何なさいましたか?』

彼の側近がお茶を淹れながらアシュヴィンの様子を伺うとその主は戸惑うように后の行方を確認した。

『千尋はどうした?』

問われたリブは思わず思う。



−千尋様がいないと落ち着かないということでしょうか?−



主の落ち着きのない様子に半ば呆れた様子を見せながらリブは淹れ立てのお茶をアシュヴィンの目の前に置いた。

『お后様も御自分に与えられたお仕事があります。そう毎日こちらに通えるものではないかと思いますが・・・。』

リブの言うことは正しかった。
皇であるアシュヴィンにも、その后である千尋にも毎日膨大な量の仕事がある。
その仕事をお互い別々の執務室で行う。
そもそも、同じ執務室では仕事が一向に進まないという臣下の切実な願いから2人は別々の執務室になった訳だが、それでもお互いを求めてやまないこの夫婦は、時折お互いの執務室を行き来してはその時間を楽しんでいた。

もっとも、最近は節操なく皇が執務室に后を呼び、そこで仕事をさせる姿が悪い意味で目立ち始めていた。
目の前で今にも千尋を連れて来いと言わんばかりの主に対してリブは腰を屈めた。

『恐れなら、お后様の外聞の為にも、たまには我慢という事をされてもよろしいかと。』

そう。
千尋の評判は必ずしも良いものではなかった。
民には、慕われているこの国の后も、宮の中では古い文官などから『后として相応しくない』と散々文句を言われていた。
そもそも、国の再建を願った策略の絡んだ婚姻だった。
国が再建した今、いつまでもそんな敵国の姫など、というのが彼らの言い分だ。
確かにアシュヴィンと千尋は政略結婚ではあったが、今はお互いを愛しあっていた為、当人たちにそのつもりはなかった。

彼らも、皇であるアシュヴィンには、そうそう意見できない。
だから、后である千尋にあたるのだ。

千尋はアシュヴィンに泣きつくようなか弱い女ではなかった。
そこにつけこんであたる、文官どもには、アシュヴィンも頭を悩ませていた。
下手に千尋を庇えば、あたりが強くなる。
だからといって見逃す事も出来ない。
千尋は強がって平気だと言うが、平気なわけがなかった。
アシュヴィンは隠れて泣く千尋の姿を何度となく見てきた。
そんな妻にいたたまれない気持ちを持ちながらも、日々、こうして千尋を求めてしまう自分にアシュヴィンも少なからず反省していた。

『まさか、また何かあったのではあるまい?』

心配そうなアシュヴィンにリブは微笑みながら、何もないと思います、と伝えた。

『しかし、最近の皇の行動は、多少・・・。お后様の評判を下げかねないかと。』

自分の勝手な解釈ですが、とリブは付け加えた。
腹心の部下にここまで言われては、アシュヴィンも我慢せざるを得なかった。
全ては、千尋の為。
全ては、自分たちの未来の為に。

『わかった。もうよい。その書面をこっちによこせ。さっさと片付ける。』

多少苛々しているのであろう。
アシュヴィンのその様子にリブはため息を1つ吐きながら、主の前に山のような書類を置いた。

『しかし、千尋様も心細いお気持ちでしょう。』

含みのあるその言い方に、アシュヴィンは昨日、千尋が活けた笹百合を一輪抜き取り、口付けた。

『リブ。』

『は。』

『この花と、何か果物と、美容に良い茶でも千尋に届けてきてくれ。』

不器用にその花を渡す主に、微笑みながら、リブは恭しくその花を受け取った。





その頃、千尋は、自分の執務室で送られてきた書簡に頭を抱えていた。
唸るようなその后の姿に、控えていた采女も何事かと、遠巻きに様子を伺っていた。

『少し、よろしいでしょうか?お后様。』

扉の外からかけられた言葉に千尋は、今か今かと待っていた声の主に、喜びともとれるような返事をした。

『リブなの?早く入って。』

千尋は、そんなリブの来訪を待っていたように、すぐにリブを執務室に招きいれた。
そして、部屋に控えていた采女をすぐに下がらせ、人払いまでさせた。
そんな千尋にリブは苦笑いしながら、まず、主によって預けられた一輪の笹百合と果物、それから果物の果肉を入れた甘いお茶を差し出した。

『アシュヴィン様からです。お后様に大層お会いしたいご様子でした。』

受け取った花を千尋は胸に抱き、香りを嗜んだ。
千尋は、その笹百合からアシュヴィンの僅かな香りを感じ切ない表情を見せながら、リブに向き直った。

『アシュヴィンに気づかれなかったかしら?』

『はぁ、多少、申し訳ないほどに、落ち込まれているというか、寂しそうではありますが、勘付かれていないかと思います。』

後頭部を掻くような仕草をしながら話すリブに千尋は、では、急がなければ、と一言だけ伝え、先程まで見ていた書簡をリブに手渡した。

『そこに書いてある物が欲しいの。今日の夜までに。』

『今夜、でございますか。まぁ、努力は致します。』

リブのあまり期待しないでくださいと言わんばかりの表情に千尋は思わず笑った。

『リブなら、きっとなんとかしてくれるって信じてるわ。』

そんな后の言葉にリブは、困りましたね、と一言だけ述べて一礼しその部屋を退出した。





その夜。

アシュヴィンは、自棄になり仕事をこなしたお蔭で本日までの執務を早々に済ませていた。
普段なら子の刻までかかる仕事も、今はまだ日も暮れかけた程度の時間だった。
だが、早く仕事が終わって自室に戻った所で、千尋に会えるわけでもなく、アシュヴィンは苛立ちを隠せずにいた。
酒を運んできた釆女から、半ば奪うように酒を攫い一気に呷るように飲んだ。
普段と異なる主の様子に采女は、驚きながら逃げるように部屋を退出した。
そんな采女には目もくれず、アシュヴィンは千尋が普段微笑みながら腰掛けている寝台を見た。
勿論、そこに千尋の姿などない。
しかし、酒の影響か、微笑む千尋がそこにいるような感覚すらし始めていた。
アシュヴィンは、そんな自分に呆れながらも、自分の中に生まれた寂しさに埋もれないように酒を呷った。
そして、千尋の戻りを待ちながらも、いつしか深まる宵闇に焦るように酒に溺れていった。




どのくらいそうしていたのだろう。
ふと目が覚めると、寝台の上で普段、千尋が眠っている方向を抱きしめるような状態で意識を失っている自分に気がついた。
酒にのまれたのは何年ぶりだろう。
我ながら、実に情けない事をしてしまったと、アシュヴィンは自嘲気味に笑った。

そして部屋を一瞥して千尋がまだ戻ってきていない事に気がついた。
千尋がいない部屋はずいぶん広く感じる。
出会う前ならば、むしろ手狭に感じたこの部屋も千尋がいることに慣れてしまった今では広すぎて敵わない。
千尋の存在の大きさだけが、酷くアシュヴィンの心に虚しく響いた。

お前はなぜ来ない?
いつもであれば、恥じらいながら扉をそっと開け、顔を半分だけ見せて俺の名を呼ぶ。


― アシュ ―


そんなお前の仕草が堪らなく愛しいのに、なぜ今日はまだ来ないのか?
会いたくて、どうにかなりそうだと、思わず漏れる千尋の名前に愛しさが籠もった。

『千尋。』

そしてアシュヴィンは、そっと自室を後にした。





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