2nd
□幸福論
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小さな頃の願望は案外今にも受け継がれるもの。
あの日思い出した幼い望みは、一週間経った今でも静雄の頭の片隅で膝を抱えて踞っていた。
そんな中再び届いた臨也の匂いに、静雄はいつものように黒い影を探していた。
「臭ぇ…この辺にいやがる…」
獲物を探す猛獣のように、自身の鼻と目を頼りに臨也の姿を探していれば。
ふと目に付いた喫茶店。その窓際の席に、机に肘をついて目を瞑っている臨也の姿を見つけた。
その姿に一気に増幅した怒り。感情のままに喫茶店に駆け込んで、臨也の席の目の前に辿り着く。…しかしその様子に、苛立ちは空気の抜ける風船のように萎んだ。
見るに、人間観察でもしながら眠ってしまったのだろう。至極無防備な寝顔に、ぼんやりと見入ってしまう。
いつもこれだけ静かなら、面倒臭くないのに。そう思いながら、その向かい側の席に腰を下ろした。
きっと臨也を殺すには今が千載一遇のチャンスなのだろうけれど、こうも穏やかな寝息を聞いてはそんな気持ちも削がれてしまう。
薄い胸がゆっくりと呼吸を繰り返す。その度に、無骨にも見えるリングが照明を反射して、きらきらと細い指で煌めいて。
興味本位で手を伸ばして、掌をその頬に添えた。滑らかな肌。指が吸い付くようだ、と思いながら、親指で撫でていれば。
不意に長い睫毛が震える。そうしてゆっくりと赤みがかった瞳が開いた。
その瞳は状況を理解できないままパチパチと瞬きを繰り返し、目の前の静雄を映す。
「…何で、いるの?」
寝ぼけ眼のまま紡がれた声に、急に気まずくなり、パッと手を引っ込めた。
「手前が、寝てんのが見えたから…」
「ふーん…」
焦る静雄を知ってか知らずか、臨也は間延びした返事をすると、一度頬から離れた静雄の手を引き寄せた。何事かと緊張する静雄を無視して、臨也は静雄の掌をきゅっと握り、細い指で静雄の指をなぞる。
「シズちゃん、手大きいんだね、」
「へ、あ、あぁ…」
「まぁ、俺のが背低いから、手も小さいのかな」
不服そうに眉をしかめた臨也は、それから瞼を閉ざすと静雄の掌に頬をすり寄せた。再び触れた柔らかな頬の感触。指先が掠めた薄い唇は、頬より更に柔らかい。
「い、ざ…」
「でも、シズちゃんの手も、好きだな」
暖かい体温が、掌に伝わる。緊張するのに、安心する。
どうして臨也相手にこんなにも安堵するのか、訳が分からない。けれど、こんなにも穏やかな臨也は初めて見た気がする。
「臨也、」
「ん?」
「…寝ぼけてんの、か?」
落ち着かず尋ねれば、臨也はぱっと目を見開いた。そうして、静雄の顔を見上げ。
「…夢?」
「夢じゃねぇけど…」
きょとんとした臨也が、覚醒した意識で状況を把握するのに一秒。
真っ赤になった臨也が自分で引き寄せた静雄の手を弾き返したのは一瞬。
「な、な…!」
「痛ってぇな!手前が自分で握ったんだろうが!!」
「知らない!寝ぼけてたんだよ!最低!変態!」
「何で手前が寝ぼけてたせいで俺が変態扱いされなきゃなんねぇんだ!!」
突然に始まった口論に周囲がしんと静まり返る。
このままじゃこの喫茶店が損壊しかねない、と店を走り出た臨也を追って静雄も店を出て、結局店の看板を武器として犠牲にして池袋を走り回ること30分。
臨也に撒かれた静雄は落ち着こうと公園で煙草をふかしていた。
確かに最初に頬を触ったのは自分だが、それをまた触れさせたのは臨也だ。なのに何で俺が被害を被らなければならないんだ。
そう、苛立たしさに煙草を噛んだけれど。
臨也に触れた掌を広げて、じっと眺める。
――暖かかった。柔らかかった。
当たり前だが、人が生きている、生きてそこにいる温もりがした。
そして、臨也のあんなに穏やかな表情を初めて見た。そうして、心底恥ずかしそうな表情も初めて見た。
今まで、憎たらしい笑顔だとか、苛立たしげな表情だとかしか、見たことが無かったのに。
でも、穏やかな顔も、憎たらしい顔も、恥ずかしげな顔も、全て臨也だ。
…心の中の幼い自分が顔を上げる。キラキラと嬉しそうな瞳で、掌に残る臨也の温もりを握り締めた。
その代わり、生暖かいものが静雄の胸をぎゅうと締め付けた。
変。変だ。こんな感覚、臨也に向けるはずがない。一番遠いはずなのに。こんなに傍にずっといたのに。
煙草を掌に握り締める。ジュ、と小さな音を立てて火の消えたそれを携帯灰皿に捩じ込むと、結局余計に落ち着かなくなったまま公園を出た。
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