影の薄い彼女と彼らの日々

□イタリア旅行と私。
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イタリア――正式名称イタリア共和国。国土面積30万1318ku。日本の国土面積よりやや小さいものの、その広さは推して知るべしである。5000万人を軽く越える人口の中で特定の人間に出会う確率など――確実に1%以下だ。芸能人と遭遇する確率のほうが高いと言えるだろう。

それでも…それでもだ。馬鹿みたいに長く黒いリムジンを見た瞬間私が恐るべき速さで踵を返したのは、最早己の動物的本能と言う他無い。
隣で一緒に歩いていた同僚の慌てた声を背に、私は競歩に近い早歩きでその車から距離をとった。(その間スリに遭わないよう、チャック付きのポシェットバッグはしっかりがっちり両手でホールドしている)
充分離れたと自分で納得出来る距離になって初めて、私は遠くに見えるリムジンを適当に入り込んだ細い路地裏からこっそり観察した――…観察しようとして、はっと我に返った。


(…。私、何でこんなこそこそしているんだろう)


私は観光客だ。万が一『彼ら』と遭遇したとしても別に問題は無いし、咎められる謂れも覚えも無い。…無い筈だ。そうに決まってる。私は何も悪くない。
よく判らない言い訳を心の中で並べ立てている内に、同僚は姿が見えなくなった私を探そうとして早速イタリア人男性からの情熱的なナンパに遭ってるし、リムジンから降りてきた人は金回りの良さそうな恰幅のいいおじ様だということが判明した。イタリアで長いリムジンを見たらマフィアだと思えという実に短絡的な私の中の不文律が崩れた瞬間である。…所詮私に超直感など備わっていないのだ。今度から本能の赴くまま動くということは、出来るだけ控えようと思う。

私は一つ溜め息を吐いて、未だにナンパから逃げ出せずにいる同僚を助けようと路地裏から一歩踏み出した――が、同時に背中を鈍い衝撃が襲った。つんのめる身体を立て直すことも出来ず、ニュートン力学の理論通り地面と顔がこんにちは状態になる。あまりの痛さにプルプル震えていると、背中から「ご、ごめんなさいっ!」という泣きそうな声が聞こえてきた。


「本当にごめんなさい!あの、怪我は…?」

「あいたた…な、なんとか平気ですから…貴女は何処か」


怪我しませんでした?と尋ねようと顔を上げた瞬間、私はがちりと固まった。左目の下にある五弁花のマーク。首から下げられたオレンジ色のおしゃぶり。黒髪の少女。――大空の、アルコバレーノ。何とも言えないまま私が笑顔で硬直していると、彼女――ユニさんは、驚いたようにはっと息を呑んだ。


「どうして…私のことを…」


バタバタと聞こえてきた複数の足音に、彼女が焦ったように背後を振り返る。私は若干嬉しそうに口説かれている同僚と誰かに追われているらしいユニさんとを見比べて、盛大に溜め息を吐いた。何てベタな展開なんだとか、運動は苦手なのにとかいう思考は一旦放棄して、私は迷わずユニさんの手を取った。

イタリアに来て早々、忙しないこと此の上無い。












人生とは出会いである。
その招待は二度と繰り返されることはない。
―――ハンス・カロッサ



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