ふることふみのことづたえ

□長い夢のあとで
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 まだ夜が明けきらぬ刻限、天原宮ではひっそりと祭詞が唱えられていた。アマテラスの取り計らいにより急遽イザナキとイザナミの御霊祭を行うことになったのである。それは光が降り注ぎ露が輝きだすまで続いていた。



◆ ◆ ◆



 露がすっかり消えた頃、ウズメやタケミカヅチを伴って戻ってきたツクヨミをアマテラスが廂まで出迎えた。まだ神々が出仕する時間には早く、正殿は静まり返っている。まるで昨夜の出来事など存ぜぬと言わんばかりのそっけなさだ。

 階の上に立つ、彼女の透き通るような金髪が光を弾く。その輝きにツクヨミは思わず目を細めた。彼らの視線がかち合い、互いに言葉を待ち合ったが、その沈黙に不自然さや気まずさといった類のものは一切見受けられなかった。

 やがてアマテラスが階から一歩踏み出すと、ツクヨミはそれを待っていたかのように膝を折る。

「宵のうちに全て終わらせ、葦原中津国より戻って参りました」
「全てか」

 アマテラスは復唱した。
 では遠いあの日、報告を聞くことができなかった保食神の件はもう終わりか。心内で尋ねたその問いに応じるように、ツクヨミはゆっくりと力強く頷いた。

「全て」
「そうか……随分と長く、中津国にいたんだな」

 その言葉に涙声が混じる。夜が明けても帰ってこない彼を、アマテラスはどれだけ心配したことか。もう二度と「彼ら」は帰ってこないのではないかと不安に駆られ、自分ひとりが異質なものとして高天原に取り残される恐怖を味わったのだ。

 階にしゃがみこみ、少女のように泣き始めたアマテラスと、その泣き顔をウズメたちから隠しながら宥めるツクヨミ。その姿を見ていたタケミカヅチはやれやれと首を振った。

「まるで子どものようだな。どっちが姉やらわからん」
「ツクヨミ様に聞かれたらきっと怒られますよ。いいんですよ、たまには。お二方は左目と右目なんですからどっちでも。いいなあ、僕も兄弟ほしいなあ」

 ウズメはひどく疲れた様子で大きくあくびをした。見上げた空は晴れ渡っていた。




 晴れ渡った空の青に、高天原を護る大門の朱はよく映えた。岩戸隠の際、チガエシが葦原中津国から助け出されたときにはぼろぼろだった門も、すっかり修築が終わり元の姿を取り戻していた。以前と少し違うのは、タマノオヤが柱にこっそり埋め込んだ水晶が、きらっと光を受けてますます神々しく見えるようになった気がするあたりである。

「世話になった」

 チガエシは見送りに来たタチカラオに笑いかけた。彼は下げみずらの子どもをしっかりと抱えている。子どもは安心しきった様子で眠っていた。

「その子は大丈夫か」

 タチカラオの問いに、チガエシはああと頷いて彼の寝顔を確かめた。

「ありがとうな、ヒルコも礼を言っていた」

 昨夕、イザナミの気配を追っていた途中に本来の姿に戻ってしまったヒルコは、その姿を見られるのも怖ければ、再び忌子と言われるのも怖かった。けれどタチカラオは蒼白な顔をしながらも、彼をしっかりと抱きかかえて連れ帰ってきてくれたのだ。泣くな、きっと元に戻ると励ましながら。その言葉にヒルコがどれほど勇気付けられたことか。常世から無事還ってきたチガエシと合流すると、立てはしなかったものの随分と形を取り戻した。

 しかしヒルコの体について、事情をよく知らぬタチカラオはきょとんとした表情で首を傾げた。

「事故で歩けなくなった子どもを背負ってやることくらいできる。それより、目を覚ましたら誉めてやれ、昨夜はとてもよく頑張った」
「そうするよ、自慢の弟だ。じゃあ、近いうちにまた」

 彼はそう笑うと鍵のかかっていない浮橋に飛び込んだ。あわしまがぐっすり寝ていたため、宵のうちにツクヨミが中津国に降りてからというもの開け放しにしていたのだ。けれどイザナミが昇華した今、そう焦って施錠する必要もないだろう。これがアマテラスの下した判断だった。高天原は以前の姿を取り戻したのだ。




◆ ◆ ◆



 柔らかな風が薄紅の花弁を連れて、開け放した窓からふわりと入ってくる。昨夜全ての花を落としきった桜が再び芽生え、生まれ変わったかのように咲き乱れたのだ。文机の上にはあわしまが描いた誰ぞの似姿が何枚か散乱しており、風を受けてはかさかさと小さな音を立てた。

 時折長鳴鳥が窓から侵入し、眠っている部屋の主をそっとつついていく。しかし気を遣ってか、あるいはその必要がないのか、鳴き声ひとつ上げずにまた飛び立っていった。

 高天原は本当に奇妙な場所である。高天原の者は勿論のこと、常世に連なる系譜の者、それどころか根の国に近い系譜の者までも受け入れる。常世ではそうはいかない。常世に連なる者たちだけを受け入れ、変化してしまった者はあるべき姿へと戻してしまう。

 それ故常世と高天原は決して交われぬ。そしてそれは必要なことなのだ。

 スクナヒコナは不意に振り向いた。御帳台の上で目を覚ましたオモイカネが彼の髪を引っ張ったのである。

「……スクナヒコナ」

 オモイカネは虚ろな瞳を彷徨わせながらその名を呼んだ。彼は今、例えれば生まれたばかりの赤子のようなもので、まだ光に目が慣れていないのだ。視界がぼんやりとしていて、そこに何かがあるという程度しかわからない。だからスクナヒコナが掌で彼の目元を覆って存在を知らせると、オモイカネは途端にほっとしたような表情を見せた。

「お前は意識が目覚めると、自分の名も知らずに私を呼ぶ。昨日は違ったがな」
「自分で覚えていないことを言われるのは恥ずかしいから勘弁してほしい。それに、今回は自分の名を知ってる。オモイカネだ、私の名は八意思兼命、常世生まれの知恵の神だ」

 スクナヒコナは思わず苦笑した。

「もはや執念だな。まさか自らの意識を切り離して勾玉に移していたとは……」
「違うんだ」

 オモイカネは緩慢に首を振り呟いた。




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