ふることふみのことづたえ

□朔月夜(3)
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 前を行く青年の長い漆黒の髪を、吹き付けた生ぬるい風が揺らす。チガエシは一瞬、何故か彼の後ろ姿に女性を――イザナミを重ねた。

 西対へ続く反り橋型の渡殿を、ツクヨミは滑るように歩く。夕陽は沈み、世界は藍色に染まる。もうすぐ新月の夜が始まる。闇に属する者たちの夜が。

「鳥がいないな……オモイカネはいないのか」

 ツクヨミがふと足を止め、内庭を見遣りながら呟いた。

「チガエシ。この気配がわかるか?」
「黄泉の気配だ。間違いない」

 チガエシは答えながら、抱えている小さな子どもに衣を被せる。あわしまは異変を察知したのだろう。先程からじっと動かず、声も上げなかった。しかし衣という外界との間の薄い膜ができたことで安心したのか強張っていた小さな体がほんの少しだけ緊張を緩めた。こんなにも幼いのに一言も怖いと口に出さないとは、さすがに肝が据わっている。

「だが先刻に比べればほとんどかき消されてる。むしろお前の気配のほうが」
「それはそうだろう。夜なのだから、俺より強い気配などあるはずがない」

 ツクヨミは口元だけで笑い、西対へと足を踏み入れた。しかし、それは頭上から飛んできた黒塗りの鞘によって阻まれる。

「動くな!名乗れ!」

 屋根の上から低く太い声が降ってくる。少し遅れて体格のいい中背の男が彼らの前に降りてきた。その身のこなしはなかなか軽く、思っていたほどの着地音はしなかった。篝火に照らされたその髪は、まるで血を浴びたように真っ赤である。厚ぼったい瞼の奥から覗く琥珀色の瞳は彼らに対する警戒心を隠そうともしていない。ツクヨミは目をついと細め、冷めた視線を男に向けた。

「俺はイザナキの子にして天照大神と対をなす月読尊。そこをどけ、タケミカヅチ。俺は姉上に用がある」

 タケミカヅチは初めて見るツクヨミの様子に多少なりとも驚いた。ツクヨミの中に不自然に抑えられた通力があるのはもちろん知っていた。しかしこれでは別人だ。

 優美な曲線を描く、ややつり上がり気味な目尻には優しさの欠片もない。漆黒の髪がかかる肌は一層白く、不健康に見える。そして周囲の空気が震えるほど脈打つ気配は力強く荒々しく、それでいて夜の静寂さまで持ち合わせている。普段が穏やかな夜ならば、今は嵐の夜。苛烈で冷酷で、温度を感じさせない今の彼ならば、遠い昔女神殺しの罪を犯したといわれても十分納得できた。

 剣を構えたまま動く様子のないタケミカヅチに対し、ツクヨミは不快だと片目を眇める。もうひとりのツクヨミはどうやらとても短気であるらしい。

「お前がツクヨミなのはわかった。だが、まだ後ろを確認していない」

 タケミカヅチは布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を握り締め、彼の凍てつく様な視線を真っ向から受け止めて冷静に指摘した。タケミカヅチは高天原で剛力の神タチカラオに唯一肩を並べることのできる武神、視線による牽制に耐えるなど慣れている。アマテラスの人選は間違いなかったということだ。

「名乗れ、誰彼構わず通すわけにはいかぬ」

 再度促され、チガエシは素直に要求に従った。だが問題はあわしまだ。彼は神々に正式に認識されておらず、名も系譜から抹消されている。名乗ったところで、このような神聖な場では名乗る名など持ち合わせていないとみなされてしまうのだ。どうしようかとチガエシが頭を抱えると、子ども自身がごく自然な体で自らの名を告げた。

「ぼくは淡嶋。イザナキとイザナミの子、光を宿すものなり」
「淡嶋?そのような名、系譜にはない」

 タケミカヅチは怪訝な顔であわしまを睨み付けた。この神聖な場で名乗ることができるのだから、間違いなくそれが子どもの名前なのだろうが、納得はし難かった。もともと後のふたりは高天原に来て間もない胡散臭い連中だ、追い返すかと判断したそのとき「全員通せ」という澄んだ声が祓戸から聞こえた。一言一句澱むことのない堂々とした声――アマテラスだ。

 彼女の許可が下りたのを確認するや否や、ツクヨミは素早くタケミカヅチの横をすり抜け戸を開いた。音もなくすっと開かれた戸の向こうは妙に明るい。眩い常世の光が天井付近を漂っていたからだ。祓戸の壁には美しい白の幣が垂れ下がり、天井には青の幣が天幕のように張られている。

 ツクヨミがその空間に足を踏み入れるとざわりと大気が震えた。広い部屋の奥には壁を背にして座るアマテラスが、床にはめ込まれた鏡に白魚のような指を滑らせながら双子の弟をまっすぐに見据えた。

「何をしに参った」

 ただならぬ闇の気配を漂わせながら祓戸を突き進んできた彼の意図を確かめようと彼女は低く問うた。するとツクヨミは微かに笑い、「普段の俺では為し得ぬことを」と答えてアマテラスの向い側に膝をつく。

「姉上、闇を御するために何が必要かお判りか」

 翡翠と水晶で飾られたその鏡に映るのは、藍と橙の入り混じった空。夕陽は山の端から僅かに顔を覗かせていた。妙に活気付いた闇の気配を抑えておくため、アマテラスは一度は沈んだ太陽をすぐさま呼び戻し、ぎりぎりの刻限まで葦原中津国へ留め置いたのである。彼女は黙ったまま続きを促した。

「闇に属するものにとって本当に恐ろしいのは光ではない――全てを呑み込む圧倒的な強さを持つ闇夜の支配者こそ恐ろしいのだ」




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