土砂降りの雨。夏の夜とはいえ温暖な土地ではないのでやはり冷える。いやに耳障りな雨音と冷たい湿気、そして熱る体温を一時でも忘れようと、闇色を纏った青年は誘われるまま柔らかな唇を貪った。 「病人を快楽に誘うとは大した悪魔ですね、リリス」 夜も深まり漸く雨足も弱まった頃、村の外れの小さな家に金髪の元天使が戻ってきた。『ベリアル』――無価値と呼ばれるその美しい男は濡れた金髪をうっとうしそうに掻き上げながら肩をすくめ、ベッドの端に座る女を非難した。一方、リリスと言われた女は黒く美しい、乱れた髪をまとめながらクスリと艶やかに笑んだ。 「あら…彼だって殿方よ、ベリアル様」 「知ってます」 リリスの悪びれた様子のない弁明に対するベリアルの答えはそっけない。彼はベッドに近寄り、今は穏やかに眠る青年を軽く覗き込んだ。異変がないことを確認すると、やれやれと言った風に頭を振り、ずり落ちていた薄手の毛布を直してやった。 「全く貴女は……混沌が暴れ出したので冷や冷やしましたよ。選りによってラジエルが地上(こちら)にいる時に――」 ベリアルが少し疲れて見えるのは、どうやらラジエルに会っていたかららしい。堕天使というだけでなく、隠し事の多いベリアルにとって、ラジエルは油断ならない。それだけに彼は慎重に、また過敏になっていたのだ。 ベッドで眠る青年はその身に混沌を宿す。創造主が血眼になって捜している、世界を形造るためのもの。細心の注意を払い天使達から青年を隠す――それは容易なことではない。それをおそらくはリリスが、彼と夜の営みをすることでいとも容易く崩してしまった。わざとではないにしろ、ベリアルが快く思わないのも当然だ。 「…ベルトラード…」 ベリアルはそっと青年の名を呼び、彼の黒髪を優しく撫でた。彼は目を覚ますことなく眠り続ける。ベリアルはリリスに向き直った。 「余計なことは言っていないでしょうね?」 「余計なこと?例えば?」 とぼける女にベリアルは鼻を鳴らした。彼女はクスリと笑い、 「本当のお名前を呼んで差し上げればいいのに」 と言いながら乱れた髪を指先でほぐした。ゆらゆらと揺れるろうそくの炎がその女の仕草を一層艶めかしく魅せる。けれどもそれは男を誘い意のままにする女の常套手段であることをベリアルはよく知っていた。 「この方の中の混沌は日増しに大きくなっている。熱もそのせい…名を取り戻せば混沌を制御出来るようになるわ」 「……そうかもしれませんね」 そう呟いたかと思うと彼は疲れたと言わんばかりにふわぁ、欠伸をしてテーブルに座り頬杖をついた。リリスはといえば呆れたように肩をすくめ、彼にタオルを投げて寄越し、自分は髪を整え帰り支度を始めた。 「…別に私はベルトラードに混沌を制御してもらいたいわけではありませんし、混沌がどうなろうと構いません」 夢現に名を呼ばれたと思ったのだろうか、ベルトラードが微かに寝言を言ったが、彼が起きる気配はない。それを確認した上で、ベリアルは濡れた髪を拭きながらその透き通るような声ではっきりと意志を示した。 「ただ、この方を天使にも悪魔にも渡すつもりはありません。そう伝えてください」 「伝える?」 いつの間にか激しかった雨足が弱まり、しとしととどこか哀しそうな雨音が静かに聞こえてくる。ベリアルとリリスは暫し探るように見つめ合い、やがてベリアルが静かに口を開く。 「……我が同胞たちにですよ、リリス」 「同胞?それは私のパトロンたちのことと受け取ってもいいかしら?」 くすりと笑う、いかにも何かを含む彼女の表情を見て彼は愛想笑いを浮かべた。 「ええ、残念ながら」 「いいわ、だけどベリアル様」 彼女がベッドから立ち上がれば、小さな灯りは微かな空気の流れを察知し弱々しく揺らめいた。照らし出された壁の陰の部分が女の動きに合わせて形を変える。そして陰が更に濃くなった時、ぼっ、と小さく音を残してろうそくの火と女の気配が消えた。 「彼はきっと、その力を欲するわ…」 雨音が途絶え、静寂が訪れた。狭い部屋には微かな女の残り香が漂っていた。 Spelling -呪縛- そう、混沌がどうなろうが構わない。だって、世界の思惑など、私には関係ないのですから |