遠くに鐘の音が聞こえる。神聖でどこか懐かしく、そして哀しみに溢れた音。それはまさに慈愛を請う子どもたちの叫び声――キリエ。 哀しみの讚美歌。サリエルはこのところ、いつもこの音で目を覚ます。神の楽園にいた頃は金色だった髪も、何故か今では少し褐色がかり、短く切り揃えていたあの頃に比べ少々伸びてしまった。彼は前髪をうっとうしそうに指先で摘み上げ、ため息をつきながら周りの風景を見渡した。 近くに綺麗な川が流れており、遠くには山脈を望む。ちょうど夜が明ける頃で、東側からだんだんと空が明るくなっていく。 地平線から顔を覗かせる太陽の光が朝露を反射し、きらきらと輝いた。屋根の上で夜を明かした彼も当然露に濡れていたが、さして気にする様子は見せずに起き上がった。 地上のことを物質界と呼ぶだけあって、この世界の景色は物と色に満ちている。地に堕ち、絶望の中でまず彼はそう感じた。綺麗なもの、汚いもの、どちらでもないもの――言えることは、神のお膝元では考えられない景色だということ。 彼は左目を被う眼帯に手を当てた。邪眼に対抗できるシングル・アイ。創造主たる父がサリエルに与えたその瞳が、邪眼となり果ててしまった――彼にはそれが耐えきれなかったのだ。 『もういいのです、サリエル!!私は父のお膝元で永遠に無価値であることに耐えられない!!離して!!』 今ならばあの青年の言ったことばも理解できる。彼は小さな希望を失った後、自責と後悔に苛まれながら暫く神の元へ留められていた。無力なまま、ただ生きるとは何と残酷なことか―― 『あの方は私のせいで地に堕ちたのでしょう。何故黙っているのです、サリエル!!本当のことを教えてください!!』 何故今更になってあの時のことを夢に見るのか――いや、虫の知らせか。 「……何の用だ、ラジエル」 彼は振り向きもせずに後ろに立った気配に向かって憮然と呟いた。 ラジエル――堕ちていないのにも関わらず、好んで堕ちた天使と接触を図る薄気味の悪い天使。それがサリエルが抱くラジエルのイメージだった。 くすんだ金髪の波は緩く、少し長めに伸ばしてある。背は低く華奢で、そのためなのか妙に手足がスラリと見えた。面前の天使と呼ばれる天使たち――つまり神との面会を許された特別な天使の中で、メタトロンやサンダルフォンの次に小柄という比較的小さな天使だ。 秘儀の天使、神の秘密――そのように呼ばれるラジエルはやはり秘密が多い。その青く澄んだ瞳に、何を隠しているのかとサリエルは内心毒付いた。それが表情に出たのかもしれない。ラジエルは苦笑した。 「来るもの拒まずのベリアルとは正反対だな。天界にいた頃から君達は正反対だったから無理もないか」 「……あんなぼーっとした奴と比べるな」 「そうだね」 ラジエルは屈託なく笑い、隣いいかい?と言うなり答えも聞かず彼の隣――教会の屋根の上に腰を下ろした。 「ベリアルは会議中、いつも思考は他の何かで一杯だったからね」 サリエルはちらりと迷惑そうにラジエルを見下ろし、小さくため息をついた。 「想い出話に付き合う気は無いんだがな」 「そうかい?」 ラジエルはにっこり笑い、特に気にした風もなく話を続けた。 「じゃあ彼の今の話をしてあげよう。僕はこのあいだ彼に会ってきたんだ」 「だから何故あれの話を」 「気になっていたんだろう?」 あまりに唐突に断言され、しかもその指摘は的を得ていたためにサリエルは否定するタイミングを完全に逃していた。絶句したサリエルを見たラジエルはといえば、その姿が余りにも珍しく面白いので思わず口角を上げた。 「『無価値』――果たして彼は本当にそう呼ばれていたろうかとびっくりするくらい、今の彼は力強い。会議中、神のことで頭を一杯にしては君から注意を受けていた彼はもう存在しなかった。ぼーっとしてる時以外はあんなに大人しくて素直だったのに、今ではほら」 彼はサリエルに何かを放った。サリエルは鶏のような形をした木の板――人間達が使う風向きを調べる道具の先端部分だと辺りをつけた。 「うっかり折っちゃった、なんて昔の彼が言うと思うかい?」 「……」 問われて彼は晴れ渡った空を見上げた。眉間に皺を寄せて記憶を辿っているようだ。 |