ふることふみのことづたえ

□淡嶋
1ページ/7ページ



 彼は高天原の大門を見上げた。赤く塗られた太い柱の円周は、大人が三人、腕を広げて囲んだってまだ余るほどだ。三尺にも満たない小さな彼にとって、それは近付くだけでも恐ろしい大きさであり、まるで宙のはてまでのびているようだった。

 この門をくぐった向こう側に、天照大神をはじめとする名のある神々が大勢集まっている。彼にとってそこは憧れの地。何故なら、彼には門をくぐり中に入る権利がないからだった。

 彼の名は『淡嶋(あわしま)』。
 漆黒の髪と夏空の色をした瞳を持つ。肩につく程度の長さしかない髪は稚児髷やみずらを結うには短く、耳の後ろでわっかをつくって結ばれている。山吹色の小さな水干を身につけ、お守り代わりの勾玉を首にひとつ下げていた。本来であれば、あわしまも高天原に住むはずだった。高天原を作り上げたイザナキとイザナミの直系であるのだから。

 それにも関わらず、あって当然の権利がないのは彼が『忌み子』とされたからだった。だから『淡嶋』は神の系譜に名を連ねていないどころか、彼らの子どもの数にすら数えられなかった。

「かみさまに、なりたかったわけじゃなくて……ちちうえとははうえのこどもに、なりたかったの……」

 あわしまは祈るように呟いた。

(ぼくはかみさまじゃないから、かみさまにおねがいしてもいい)

 いつか、すこしでもおおきくなってみとめてもらうんだ。

 彼は自分にそう言い聞かせ、自分の隠れ家に帰っていった。

 彼は、そして神々は知らない。なぜ彼が忌み子とされたのかを。






 高天原は北側に天香具山を望み、香具山からは天安河が流れ込んでいる。山裾からは平野が広がり、その中央に天照大神ら三貴子が住まう天原宮がある。そして宮を取り囲むように、田畑や建物が広がっている。北の居住区を北殿、東を東殿、西を西殿といい、南側は東殿と西殿のいずれかに分けられている。

 天原宮は天の政治の拠点で、鍛冶場などの特別な仕事場を持つ者以外はたいていそこに「お勤め」している――というのは名ばかりで、実は大した仕事をしていない者も多い。彼もまた、その一柱。



「……何故」

 北対とよばれる棟の質素な造りの部屋の中で青年は脇息に肘をつき、だらしない座り方をしながら呟いた。

「何ゆえ俺が子守をしなければならぬのか……」

 彼の名は月読命(つくよみのみこと)。夜の世界を守護する神であって、本来昼間は仕事がない。だからゆっくり寝ていても問題はないのだが、なんだかんだでこうして毎日健気に起きているのである。

 彼は艶やかな漆黒の長い髪を頭の高い位置でひとつに結っている。蝶の形をした髪飾りは銀色で、漆黒にはとてもよく似合っていた。切長の目は目尻が少しつりあがっていて、瞳は深い深い夜の色。左目の際には銀色に光る細かい飾りをつけていて、その光が反射すると左目が月影を映した夜の海面のように見える。そして両耳には三日月をモチーフにした飾りがゆらゆら揺れていた。青みの強い薄紫の衣と黒染めの袴を着け、いつでも昼寝ができるようにと薄手の単を肩にかけている。背丈はあるが肌が白く、もともとの顔つきも手伝って全体的に中性的な印象の男である。

「兄上っ、ホントにぼくとあそんでくれる気はあるのですかっ」

 今にも眠ってしまいそうなツクヨミに向かって五つくらいの少年が唇をとがらせた。燃えるような赤い髪を稚児髷に結い、紫色の瞳をもつ――素盞鳴命(すさのをのみこと)である。兄であるツクヨミとは違い、くりっとした目は少し垂れ気味で、リスのような小動物という印象。お気に入りの萌黄色の水干を着て、でかける準備はできているようだ。ちなみにスサノオは早々に天界追放になるという伝承があるが、そんなことはない。どこかで間違った話が伝わっているのだと彼自身は分析していた。

 スサノオの不満の声に、ツクヨミは「その言いようはまるで俺がやる気ゼロのようではないか」と伸びをしながら抗議した。その様子ではやる気などまったく見えなくても仕方がないのだが、本人は気付かないらしい。

「違うのですか?ぼくはてっきり、テキトウにあしらわれているのかと……昨日は昨日でお仕事でしたし」
「あしらっているわけないだろう、仮にも兄弟なのに」

 ツクヨミはそう言い、小さくあくびをして付け加える。

「だが今俺は、おそろしく眠い」
「お昼寝なさいますか?」

 そう尋ねてくる小さな弟の瞳がいたずらっぽく光ったのを、兄が見落とすはずもなく。

「いや、眠れんな」

 スサノオはとてもやんちゃ。じっとしていられない性格なので、暇な時に一人にさせると何をしでかすかわからない。おまけに彼は通力が強すぎるのだ。ちょっとした刺激で有り余った通力を暴走させてしまうので、兄としてはそれが不安の種であった。自分が知らぬ間に弟が暴走を起こしてしまったら――と。

「だいたい」

 不安を隠してツクヨミは弟を諭した。

「お前は地上を見守る役目があるだろう」

 しかしスサノオはそれなら、と胸を張って堂々と、「ひいちゃんにさせているからいいんです」などと答えてくれた。ひいちゃんというのはスサノオの眷属に入っている精霊のひとりである。



次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ