アマテラスはウズメの口から挙げられた己の参謀を思い浮かべて首を傾げた。 「そうか?まぁ、確かに誰よりも上手ではあるな。ところでウズメ、先程口にしていたショージョマンガとやらはどこで覚えてきた」 にわかに彼女の声色が硬くなる。 「もしや、下界に出たのではあるまいな」 「いいえっ」 ウズメは慌てて首を横にふった。 「出てません。それに、イザナキさまがお隠れになってから天浮橋は隠されてしまったんですもの、出たくても出れません」 天浮橋とは地と天を繋ぐ唯一の橋で、はるか昔は高天原と葦原中津国との行き来も自由にできていたらしい。しかしイザナキの妻であったイザナミが黄泉に降ってから自由な往来はできなくなり、それ以来中津国へ勝手に降りるのは慣習的に禁止されているのだ。もっとも、今ウズメが言ったようにイザナキが天を去ってからというもの浮橋はずっと隠されたまま、出たくても出れなくなってしまったのだが。 アマテラスは納得したらしい。軽く頷き脇息に頬杖をついた。 「では誰かの鏡でも覗いたか?」 「はい。暇だったので」 彼らの持つ鏡は地上を映す道具として使われる。過去も未来も、いかなる場所も映し出せるのだ。ウズメは暇になるといつも鏡を通して人間を観察していた。 「ならばよい。しかしお前も水臭い奴だ」 アマテラスはここにきて初めて満面の笑みを浮かべた。 「暇ならばそう申せば良いのに。暇つぶしの雑用ならたくさん用意がある」 それは嫌だ。彼女の雑用は暇つぶしどころではないのだ。ウズメは慌てて踵を返した。 「失礼しまっ」 襖を再び開けて走り去ろうとしたが、部屋から出た途端、やってきた青年に真正面からぶつかり尻餅をついた。 「ウズメ、このようなことがあるから走るなと言ったんだが」 青年が腰を屈めて上から覗き込んできた。それと同時に扇の先でウズメの顎を持ち上げるのもその人は忘れなかった。夜色の瞳と、視線があう。 「わぁっツクヨミさまっ」 ウズメは今度こそ走り去った。ツクヨミは「走るなと言ったのに」と憮然と呟く。アマテラスは肩をすくめた。 「今のはお前が悪い。あれの弱点を知っていながら」 そう、ウズメは至近距離から覗き込まれるのが特に苦手。得意な者も滅多にいないだろうが、ウズメの場合はすぐに緊張してうろたえるのだ。ツクヨミは至極楽しそうに笑った。 「あれくらいがいい薬ですよ、姉上」 「姉上、兄上がぼくにいじわるなさるのですっ」 そう言いながらもちゃっかり兄の背中によじ登ってひっついて来たあたり、スサノオは今日こそ遊んでもらう気でいるらしかった。 「何を言うか。愛情の裏っ返し、愛情表現だ」 毎日毎日進歩のない言い合いをする弟たちに、アマテラスは本日何度目かの溜め息をつく。そのとき、何か聞こえた。本当に小さな、舌足らずの子どもの声が。 「……いかがなされました、姉上?」 急に耳をそばだてた彼女に、ツクヨミはそっと尋ねた。 「子どもの声が聞こえた気がしてな」 「子どもの声?ぼくのではなく?」 スサノオは小さく首を傾げた。 「いや、違う。ウズメでもない……もっと小さくて拙い感じの……」 彼女の聞いた声を聞こうと、少しの間沈黙が流れた。ツクヨミにもスサノオにも聞こえなかったが、しかしスサノオは急に顔を上げて得意そうに言った。 「それならばきっと、淡雪の声でしょう」 誰だそれは。アマテラスとツクヨミは戸惑いながらお互いに顔を見合わせた。 ――――― 彼はお気に入りの場所をいくつか持っている。高天原の門を横目に通り過ぎ、隠れ家である小さな倉庫とは反対方向に進んだところにある泉もそのひとつ。 その泉は驚くほど青い――それもそのはず、地上でいう空が映し出されているのだから。彼はこれを覗いていれば、いつか人間を見れるんじゃないかと考えていた。しかし、いつになっても見えたためしがない。あわしまは小さく溜め息をついた。 「あっいた!淡雪っ」 元気な声と足音が聞こえ、あわしまが振り向くとスサノオがにっこりしながら走ってくるところだった。 |