番外編
□たおやかに落つる恍惚
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自分には兄がいる。
だが、その兄とは余り話したことはなかった。
母が兄から遠ざけたのだ。
あれはお前に危害を加えかねないのです。
そう忌々しげに言って。
それを聞いて、己は兄に嫌われているのだと思っていた。
だから、近づけなくて。
遠くから見える兄は、とてもキレイで。
稟とした姿、母に似た美しい顔(かんばせ)、動きの一つ一つが優美で、その口元が湛える微笑は、優しいものだった。
母が言うように、恐ろしく見えない。むしろ、近づきたい。話したい。触れたい。
自分を、見てほしい。
だけど嫌われていると思っていたから。
近づけなかった。
黙って見てるだけ。
だけど、
「市太郎、そんな所で何をしているんだい?」
兄は優しく優しく目を細めて、まるで愛おしげに微笑んで自分の名前を柔らかく呼ぶものだから。
「……………何でもありません、兄さん」
誤解してしまいそうになる。
嫌われて、いないんじゃないかと。
だけどそれを訊ねて、兄がその微笑を湛えながらはっきりと『きらい』と言ってしまうのを聞いたのなら、自分はきっと、壊れてしまう。
だから、見ているだけ。
いつか、いつか、その口唇から、自分を『すき』と言うのを聞けたなら。
そうしたら、たくさんの『すき』を言おうと思う。
この胸を占める『あい』を捧げようと思う。
今はただ、黙って見てるだけ。
(だから私を見て、笑って)
〈〈配布元:夜風にまたがるニルバーナ〉〉