素敵文
□後ろ手あわせ
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先に薄れてゆくものは。
自分の心か、相手の記憶か。
後ろ手合わせ
側にいた時、特別意識してたわけでもない。事実、いつも名字で呼んでいたため、つい最近まで彼の下の名を知らなかった程だ。図書室の卒業者名簿を興味本位で開いた時、最も新しい項目の、なおかつ上からさほど間をおかぬ位置にその名はあった。
『久々知 兵助』
他の卒業者と同様事務的に綴られた、味気無い文字。だが瞬間パッと目にとびこんできて、久々知の姿がまぶたに浮かびちょっと動きが止まる。
一つ年上のこの先輩が卒業し、早四ヵ月。二年前、まだ四年生だった時に五年生と合同授業が行われたことがあり、ペアを組んだのが彼であった。以来、何かと親切にあれこれ世話を焼いてくれた。
『いい先輩』
自分にとってはそれ以上でも以下でもなく。だが、あの卒業式の日。今までのお礼を述べ、「お元気で」と型通りの挨拶をした自分へ久々知は
「それじゃあな」
微妙な含みの言葉と、形容しがたい表情を投げかけた。今でも鮮明に、脳裏に映っては消える一コマ。
「…勘弁して下さいよ」
ポツリと名簿に向かい、呟く。
「あんな顔されたら、忘れられない」
優しくて。
泣きそうで。
苦笑に近い、微笑。
小さく胸が震え、視線を外せなかった。そして同時に訳も分からず「行かないで」と叫びたい衝動にかられた。
そう。
久々知に対する『ただの先輩』という認識が、初めてわずかにその領域を出たいともがいていたのだ。
今更、日を追うごとにそんな己の根底を解しだした自分がいる。
「ホント今更、だけどね」
もう側にいないのだから。
文句すら、伝えられやしない。
「……」
静かに名簿を閉じて前を見据えると、綾部は自嘲気味に笑った。